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日本思想史研究会(京都)のブログ

本研究会は立命館大学を拠点に、歴史学・思想史の問題について時代・地域に捉われることなく、深く考えていく場として設立されました。2014年度後期例会は、個人研究テーマ報告です。

2018年10月9日(火)例会予告

論題:近世中後期の対馬における自己認識の形成と「藩屏」論――対馬の史書叙述を通して

報告者:松本智也

要旨:
 本報告では「藩屏」を鍵語として近世中後期の対馬藩における自己認識の形成を検討する。十八世紀初頭、交易銀の輸出をめぐる新井白石(一六五七~一七二五)と雨森芳洲(一六六八~一七五五)の論争のなかで、芳洲や対馬藩は「対馬藩は古来より「藩屏第一の要地」として肝要の地にあり、その武備を充実させるために日朝貿易が当然許さるべきことだ」と主張した。芳洲は対馬藩宗家が果たした重要な役割を徳川政権に理解してもらうべく、日朝両国で果たしてきた対馬藩の歴史的役割を明らかにし、「藩屏之地」対馬への注意を喚起した。論争の過程で打ち出された芳洲独自の対馬藩経済理論(「芳洲理論」)は、中世いらいの貿易主体型から、物成を基本に据えた領主経済型へ移行させようとするものであった。「芳洲理論」は以後の対馬藩にとって、幕府交渉のための指南書的役割として永く生き続け請願理論の中核を占めるようになる。近世中後期の対馬における「藩屏」論はこのように経済史の文脈で発議された議論ではあるが、じつは対馬の自己認識の形成をめぐる問題へも波及する。
 芳洲のいわんとする「日本の藩屏」たる対馬の位置づけは次の三点に整理できる。①対馬は外国にたいする「日本の藩屏」として防衛を担ってきた歴史的な由来がある。②対馬は徳川家康の時代から「日本の藩屏」という役儀を預かってきた正統性がある。③対馬が「日本の藩屏」たるためには経済的な保障が必要である。しかし芳洲はあくまでも論理的操作として歴史的由来を付したにすぎず、芳洲の議論の根拠が不確かであることについては芳洲の弟子の満山雷夏(一七三六~九〇)が批判する。雷夏は芳洲の議論が「事実に拠」らず、「往古の古誼遺例」「古例」が具体的に述べられていないので、徳川政権にたいし対馬への経済援助を求める議論としては説得力を欠いていると批判する。この議論に説得性を持たせるためには、対馬が「日本の藩屏」たることの歴史的根拠を明示することが必要であるが、その歴史的根拠が不足していると雷夏は批判した。じつはここには対馬における史書編纂をめぐる問題提起も含まれているのである。そこで本報告では、「藩屏」としての自己認識が対馬における史書すなわち陶山訥庵『津島紀略』(一六八六)、藤定房『対州編年略』(一七二三)、平山東山『津島紀事』(一八一一)にどのように表れ、芳洲と雷夏の問題提起をどのように反映しているのかを検討し、もって近世中後期の対馬における自己認識の形成過程を考察したい。
※なお本報告内容は構想中の博士論文の第三章第三節に相当する部分となる予定である。

参考文献:
・田代和生「対馬藩経済思想の確立」(『日朝交易の対馬藩』創文社、二〇〇七年 初出は二〇〇〇年)
・鶴田啓『対馬からみた日朝関係』(山川出版社、二〇〇七年)
・石田徹「対馬藩における帰属意識と日朝関係認識――訥庵・陶山庄右衛門を中心に」(明治学院大学国際学部付属研究所『研究所年報』一三、二〇一〇年)
・松本智也「対馬藩儒満山雷夏の自他認識――「藩屛」論と「礼」論より――」(『立命館文学』六五五、二〇一八年)

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