日本思想史研究会(京都)のブログ

本研究会は立命館大学を拠点に、歴史学・思想史の問題について時代・地域に捉われることなく、深く考えていく場として設立されました。2014年度後期例会は、個人研究テーマ報告です。

7月14日例会 報告要旨

題名「「神代巻」の否定と「神道」の再規定――鈴木貞斎『神代巻存疑』と「朱子学化」の理路――」
報告者 松川雅信
要旨
 本報告では、崎門派の浅見絅斎門下で、なおかつ室鳩巣らとも交流のあった近世中期の儒者、鈴木貞斎(一六七五~一七四〇)における「神代巻」および神道をめぐる議論を、同時代とりわけ享保期の思想状況を俯瞰しつつ検討した。
 享保期の貞斎が直面したのは、「異学」殊に徂徠学の隆盛と、その他方での朱子学の不振という事態であった。(中国の場合であればいざ知らず)朱子学に関する認知度がもとより低い近世日本では、「気質不変化」を説く徂徠学が「聖学」として人口に膾炙してしまう恐れがある、と貞斎は説く。そこで貞斎は、「気質変化」によって「聖賢」に至る「学問」の必要性を只管に強調するわけであるが、興味深いのはその際に貞斎が、「学問」によって「聖賢」たり得た典型例として徳川家康をあげている点である。「軍法・兵学」によって家康が天下を奪取したとする既存の評価を論駁しつつ、貞斎は「経学」によってこそ家康は現今の天下泰平を築いたといい、「東照宮遺訓」に象徴される家康の知見には、今の多くの儒者達もこれにおよばないとする。このように貞斎は、「軍略家・家康」を「聖賢・家康」に転換することで、「学問」奨励を図る。これは、いわば近世日本に既存のものを「朱子学化」することで、朱子学を普及させんとする貞斎の戦略である。
 こうした「朱子学化」という戦略のもとで、「神代巻」も捉え直される。結論からいえば、貞斎の「神代巻」に対する評価は一貫して低い。というのも貞斎にあって、『日本書紀』は聖徳太子『先代旧事本紀』を下敷きにしており、編纂者の舎人親王はこのことを知ったうえで、仏法を斥けなかったという大罪を犯しているからだとされるからである。「神代巻」の内容に関しても、多くの記述が「陰陽」「道」に悖るものだとして論難される。ただ特筆すべきは、かくなる貞斎の「神代巻」批判はすべて、「神道」という立場に依拠することによってなされているという点である。貞斎は、伊弉諾・伊弉冉といった「祖神」や三種の神器等の価値それ自体は、毫も疑わない。これらは、朱子学の「道」を体現するものと考えられているのであり、むしろ「神代巻」やこれを奉ずる世の神道者達は、「神道」を貶めるものとして認識されているのである。すなわち、ここでも貞斎は「神道」を朱子学として捉えることで、近世日本における朱子学の拡散を企図する訳である。
 享保期には既に、多田義俊や太宰春台によって所謂「考証」的立場からする神道批判が登場している。『先代旧事本紀』が聖徳太子の著作であると見なす貞斎が、こうした議論を認知していたか否か、詳らかにはし得ないが、とまれ貞斎は「神代巻」を否定することで「神道」を「道」の側に救い出そうとしたのである。このことは、「儒教/神道・国学」や「儒家神道」という往時の思想史研究の枠組みには収まりきらない次元に、貞斎という儒者が存していたことを示していよう。

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