日本思想史研究会(京都)のブログ

本研究会は立命館大学を拠点に、歴史学・思想史の問題について時代・地域に捉われることなく、深く考えていく場として設立されました。2014年度後期例会は、個人研究テーマ報告です。

5月26日例会 報告要旨

5月26日例会 「『日本書紀』における高皇産霊尊と天照大神の記述の検討」報告要旨
 本報告では『日本書紀』における高皇産霊尊と天照大神の皇祖神としての記述に関する検討を行った。記紀神話において天皇家の皇祖神として広く知られているのは天照大神であるが、天照大神が皇祖神の地位を占めるようになったのは、西暦7世紀末ごろからであったとされている。それ以前に皇祖神として祀られていたのは『古事記』において造化三神の一柱として登場する高皇産霊尊であったということが定説化している。『日本書紀』神代巻において、高皇産霊尊は天孫降臨が描写される第九段の本文で、明確に「皇祖」と記述されており、神々に指令を下す最高神として描写されている。しかし、高皇産霊尊は皇祖神であるにも関わらず神代巻での具体的な記述が少ないため、存在感が薄い。一方の天照大神は、神代巻で登場する場面、具体的な活躍の描写が豊富にあり、皇祖神としての尊貴性を強調する記述も多く存在している。しかし、天照大神に関する記述には第六段と第七段での記述の矛盾などの不整合な点が存在している。皇祖神の交代は、7世紀に徐々に進行したとされているが、これは『日本書紀』が編纂されていた時期でもあり、また大和朝廷が律令制を導入し諸豪族の統合と中央集権化を推進していた時期でもある。高皇産霊尊は皇室を中心とした一部豪族のみが祀っていた神であり中央集権化を進めるのに訴求力が無かったのに対して、土着の地方神でありながら広く知られ信仰されていた天照大神は豪族を統合するのに適した神だった。『日本書紀』は天皇の統治権の正統性を説いた政治的な歴史書である。神代巻での皇祖神に関する記述は、朝廷が中央集権化を進めていた皇祖神交代の過渡期に勅撰史書が編纂されたことで、皇祖神の位置づけが高皇産霊尊と天照大神のどちらかに一元化されなかったのではないかという筆者の見解を先行研究をふまえた上で報告した。

文責 橘宏

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