日本思想史研究会(京都)のブログ

本研究会は立命館大学を拠点に、歴史学・思想史の問題について時代・地域に捉われることなく、深く考えていく場として設立されました。2014年度後期例会は、個人研究テーマ報告です。

12月3日 例会報告要旨

                 徳川時代後期日朝関係の再照明――辛未通信使との接触を素材に

 徳川時代後期、北方問題の浮上と軌を一にして日朝関係が主題化されなくなっていく。江戸に来た通信使は1764年度のものが最終であり、結果として「最後」になる1811年の通信使(辛未通信使)は対馬で対応した。辛未通信使については江戸に来なかった例外的なものとして扱われ、延聘の交渉過程に研究が集中しており、来聘時の接触様相、相互認識についてはほとんど触れられてこなかった。そこで本報告では辛未通信使との接触様相に注目することにより、近世後期の日朝関係について再検討する視座を提示せんとすることに眼目を置いた。まず対馬に随行しなかった佐藤一斎の『愛日楼文』、対馬に随行して通信使と直接接触した草場珮川の『津島日記』を検討したところ、日本側が「文」の上で朝鮮に対して優位に立たんとする意識、すなわち徳により朝鮮が日本に靡くのだという論理が見られた。また、前回の通信使の対応における反省を活かして、後代につなげようとする意図も見られる。続いて通信使との筆談の様相を探るため草場珮川『対礼余藻』、三宅橘園『雞林情盟』を検討した。日本の文人たちは筆談において、朝鮮側から科挙の方法や清の儒学の現状などを学ぼうとしていた。ここには日本が儒教後進国であるという現実が背景にあり、その裏返しとして、朝鮮より優位に立ちたがる意識を有していると指摘できる。また筆談において仁斎・徂徠の学説が主題化されるのであるが、これは朱子学、陽明学、あるいは沈徳潜をはじめとする諸々の清儒、あるいは李退溪など朝鮮の儒者と同じ次元のものとして、当該期の東アジアを動いていた一つの流れとして捉えることができる。徳川時代後期の日朝関係は、従来、接触が希薄化した状況下で相互蔑視観が醸成されてきて日朝関係が途絶えていくものとしてのみ説明されてきたが、実際には18世紀から19世紀にかけて連続した流れの上で捉えることができ、相互の関心が大きかったことが指摘できる。更に儒教を軸に据え清の動向も交錯した流れを念頭に置いてみると、相互の学術に学び合う姿勢が見られ、東アジア史の動向の中に位置づけなおすことができよう。

文責:松本

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