日本思想史研究会(京都)のブログ

本研究会は立命館大学を拠点に、歴史学・思想史の問題について時代・地域に捉われることなく、深く考えていく場として設立されました。2014年度後期例会は、個人研究テーマ報告です。

2014年11月13日例会報告要旨

 前期の報告では、1930年代から敗戦に至るまで、ジャーナリスト・評論家長谷川如是閑が構築した日本文化論を、彼の著作――『日本的性格』(1938)と『続日本的性格』(1942)という二冊を中心に分析してみた。同時代知識人の言説や、こういった「文化論」言説自体の時代性、史的・社会的変動との関連の弱さなどの問題は指摘され、今回改めて、より長いタイムスパンで、時代の流れと関連しつつ如是閑の論考を考察してみた。具体的に、前期の報告を踏まえた上で、1919年大山郁夫、河上肇らとともに『我等』雑誌を創刊してから、1934年『月刊批判』(1930年『我等』より改名)雑誌廃刊するまで、いわゆる如是閑が最も「ラディカルな時代」においての論考を加え、「大正・昭和前期」というスパンで如是閑の「アジア観」へ考察した。また、雑誌同人の大山郁夫や、吉野作造の論考と対照しつつ検討する方針であったが、時間の制限で今回の報告では如是閑の論考を中心に行った。
 「アジア観」を扱うのに考えたのは、そもそも長谷川如是閑は、言論人・ジャーナリストという「アウトサイダー」としての性格は強く、彼の個人史におけるフリージャーナリスト時代は、ちょうど1920年代前後における社会学受容・浸透と重なり、『我等』(『批判』)を拠点に展開された時事評論・批判の射程は、日本を中心に、ロシア、中国、いわゆる「アジア」地域まで輻射し、ヨーロッパ、アメリカまで届いていた。日一日増大する「国家」と対峙するため、「社会」という堡塁を立てようとしたその「アジア」・欧米までに向けたまなざしには、常に「国家悪」と対抗し得る「共同体」の範型を求めている渇望があった。「日本はどこへ向かうべきか」という問題関心は、如是閑を動かせる原動力である一方、また戦時中に彼が見事に「国民統合」された理由でもあった。
 言説がせめぎ合う「近代日本のアジア認識」という空間に、もうひとつの視線を描いて照明を試みた。

文責:張琳

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