日本思想史研究会(京都)のブログ

本研究会は立命館大学を拠点に、歴史学・思想史の問題について時代・地域に捉われることなく、深く考えていく場として設立されました。2014年度後期例会は、個人研究テーマ報告です。

2014年6月5日例会報告要旨

丸山真男『日本政治思想史研究』(東京大学出版会、1952年)は戦後の江戸思想史研究の出発点であったと言ってよい。本報告は、『日本政治思想史研究』とその批判を概観し、その論点から引き受けるべき課題を考察することで、「戦後日本の歴史学の史学史的検討」を企図したものである。
丸山は江戸思想史を、朱子学を第一歩とした「自己分解過程」として捉えており、徂徠学を中心とした「近代」の萌芽がありつつも阻害されたため、「国民主義」も「前期的」性格にならざるを得なかったと見ていると言えるだろう。こうした丸山の見解は、儒学思想史研究に限定すれば、少なくとも2つの方向から批判を受けることとなる。1つは、1960年代から1980年代を中心になされた、尾藤正英を代表とする批判であり、もう1つは、1990年代以降に登場した、「一国思想史」を批判する議論である。代表的な論者は、子安宣邦と酒井直樹である。
尾藤からの丸山批判が実証的な観点からであったのに対し、子安や酒井は理論的な側面から丸山を批判した。その結果、丸山にも尾藤にも共通していた「大きな物語」(近代化を前提とした議論)を解体し、「事件」としての「言説」が有する「特異性」を重視した(子安)、あるいは「言説」に回収されない「テクスト性」まで射程に含めた(酒井)、「言説の思想史」ないしは「言説論」という方法論が提示された。山下範久が提唱し、桂島宣弘が近年積極的に議論を展開している「近世帝国」論は、こうした動向を踏まえたものであると考えられる。
しかし、山下の指摘する「独話論」的な「普遍」は、〈普遍主義/特殊主義〉という共犯関係を構成するものに他ならない。「一国思想史」批判として機能しうる「近世帝国」論も、本来の機能から裏切られざるを得ないのではないか。ここに「近世帝国」論を理論的に再考する余地がある。山下はこの「独話論」的な「普遍」以外に「普遍」の可能性は見出せないと考えているのに対して、酒井は「普遍主義」とは別の「普遍性」を読み出そうとしている点である。酒井の議論から引き受けるべき論点として、「普遍」の両義性を挙げることができるだろう。すなわち、「特殊主義」と共犯関係にある「普遍主義」と、「外部性」としての「普遍性」である。そして、この〈普遍主義/普遍性〉の関係に、「近世帝国」論を位置付けることができるのではないだろうか。すなわち、「近世帝国」における〈普遍主義/普遍性〉の生成・解体を江戸思想史研究に位置付けることができるのではないだろうか。

文責:田中

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