日本思想史研究会(京都)のブログ

本研究会は立命館大学を拠点に、歴史学・思想史の問題について時代・地域に捉われることなく、深く考えていく場として設立されました。2014年度後期例会は、個人研究テーマ報告です。

7月18日例会山口報告要旨

報告では、竹内好「近代主義と民族の問題」(初出『文学』66号、1951年)について報告した。
民族という要素はかなりの比重を持ち、あらゆるイデオロギイあるいは文化の問題がこの要素を除外しては考えられない。にもかかわらず、戦後日本においては「民族主義=悪」と「民族主義(または民族意識)」からの脱却という構図があり、文学においてもヨーロッパ文学に比しての「日本文学の歪み」の議論が中心であった。これが「日本文学の自己主張を捨てている状態」であり、また民族を思考に含まず、排除する「近代主義」の問題を指摘した。日本ではこの民族の切り捨てこそがナショナリズムを帝国主義と結びつかせ、そのウルトラ化へと至らしめた。そして戦後という再出発の時期に近代主義と民族主義の止揚の必要性つまり主体性の欠いた文化構造から民族主義の回復させる「国民文学」の必然性を唱えたものであった。
疑問点としては第一に、主体としての民族の底辺をなしている「東洋」が「ヨーロッパ」との接触の中で形成されたものであり、その前提としての「東洋」から出発した時点で、「中国」・「アジア」そのものが問題になるのではなく、そこでは主体たる「東洋」を立ち上げせしめた「ヨーロッパ」が鏡像として立ち現われざるを得ないのではないか、第二に近代化の問題において竹内は「中国」そして「中国革命」をまなざしていたが、そこには「ヨーロッパ」の鏡像としての「アジア」・「中国」つまり彼が批判した近代主義者的な発想があったのではないかを提示した。特に第二点に関しては確かに中国への視線や日本共産党批判においては先駆的であったが、その中で逆に彼の言う「近代」や「権力」というものへの「徹底的な視座」にまでいたれなかったのではないかということも併せて述べた。ただし、埴谷雄高や丸山真男などの竹内に対する視線には「近代主義を批判する近代主義者」そして「コスモポリタニズムが感覚としてある」と評したことは、逆に竹内に近代主義を超えた近代あるいは、欧米に規定された東洋というものを突き抜けた先の主体性の可能性を見ていたのかもしれないとも提示した。

文責:山口

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