日本思想史研究会(京都)のブログ

本研究会は立命館大学を拠点に、歴史学・思想史の問題について時代・地域に捉われることなく、深く考えていく場として設立されました。2014年度後期例会は、個人研究テーマ報告です。

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【巻頭言】 倉地克直「東照宮祭礼と民衆」

東照大権現は、近世社会において、どのように存在していたのであろうか。それは、東国の武家の守護神か、もしくは、将軍の権威を荘厳せしめるものにすぎなかっただろうか。また、近世社会における神仏をめぐる意識動向の中に、東照大権現はどのように位置付くのだろうか。そんな関心から、「『三河物語』における二つの[起請破り]をめぐる断章」という雑文を草したことがある(1)。その末尾で、東照大権現を八幡大菩薩のアナロジーとして描いた『三河物語』の一節を引き、「東照大権現を、徳川家中の守護神にとどまらない現世の社会秩序全体の守護神として表現しようとしている」と指摘した。それ以前から、近世民衆にとって東照大権現とは何であったかが気になっていたからであり、今もそうである。ところで、近世を通じて全国に約一五〇の東照宮が勧請されたという。それらは民衆にとってどのような存在であったのだろうか。試みに岡山藩の事例を紹介しながら、少し考えてみよう。

岡山に東照大権現が勧請されたのは、正保二年(一六四五)二月のことである。この時期、岡山藩主池田光政は、家臣団の強化と統制を中心に、藩政の確立に取組んでいた。光政は、「江戸ノ被思召処、末々国々まてあんおんニゆるやかに在之様ニと御心根ニ候、就其、当国なとハ猶以御心ニ叶候ハて不叶儀ニ候」(「池田光政日記」正保三・六・十六)とか、「国能治、国さかへ候へハ我等へノ方向、我等ハ上様へ御方向と存候」(同前、慶安二・三・朔)とか説諭しており、常に家臣に対して将軍への奉公を強調していた。こうした立場から、藩政の精神的バックボーンの一つとして東照宮が勧請されたわけである。もちろん、光政自身が将軍家光と極めて親密な関係にあり、「新太郎〔光政〕ハ余人とちかい候条、権現様しんかうニ存候ハて不叶儀と被思召候」(同前、正保二・三・六)と言われているのではあるが、東照大権現勧請の目的は、光政個人による崇敬ではなく、あくまでも治国の主体としての家臣団全体による崇敬にあったと考える。

遷宮は正保二年二月十六日の依るに行われ、「御家中侍中不残罷出白洲ニ跪祇候仕、侍中之後ニ貴賤群集」(「御祭礼聞伝記」)という盛況であり、翌十七日から三日間は法会が執行され、これも「貴賤男女参詣夥敷群集有之」(同前)であったと伝えられている(2)。東照宮祭礼は、翌正保三年(一六四六)にはじまり、毎年、四月十七日か九月十七日か(藩主の在城にあわせて隔年交代)に執行された。

当初、祭礼の一つの中心は、「御家中御老中ヨリ馬廻リ之侍中迄騎馬所持之面々」(同前)による馬揃であった。これは、寛文五年(一六六五)まで続けられ、寛文初年には五百騎程の行列であったという。あわせて、明暦二年(一六五六)から寛文五年までは流鏑馬が行われている。更に、寛文六年(一六六六)から九年(一六六九)までは、甲冑騎馬による武者行列が行われている。まさしく東照宮祭礼は、家臣たちに治国の主体としての自覚を促すとともに、家中の威勢を良民に固辞する一大イベントであったのである。なお、寛文六年は、寺社淘汰・キリシタン神職請を中心とした強力な教化政策が開始された年であり、ことさら武威を強調する武者行列への転換も、それとの関連が深いと思われる。

東照宮祭礼でもう一つ注目しておきたいのは、当初から城下町住民が動員されていることである。その一つは、御神幸供奉の練物が岡山町中五町から出されていること。ただし、これは承応二年(一六五三)まで続けられ、承応三年(一六五四)の大洪水によって以後中止となっている。もう一つは、城下武家方とともに、町方十二町が東照宮御氏子とされ、祭礼前日に初尾として鳥目九貫文の奉納を義務付けられたことである。

ところで、この点で興味深いのは、鳥取藩の事例である。『鳥取県史』によれば、鳥取城下に東照宮が勧請されたのは慶安二年(一六四九)、祭礼は慶安五年(一六五二)から始められているという。この祭礼には、城下の町方から六つの練物行列が出されているが、これは一種の「役」として課せられたものであるという。そして、城下町住民による練物は、前代からの民間伝承芸能に深く結び付いたものであり、祭礼の開始とともに盆踊りに対する規制が行われたことを考え合わせると、東照宮祭礼への民衆の動員は、遊芸にかける民衆のエネルギーを権力の祭礼に流し込もうとしたものであったと推定されている(3)。

岡山藩でも、事態は同様であったと考えられる。城下町住民の東照宮祭礼への動員は、彼らに現在の秩序の正統性を意識させ、社会的統合をすすめるものであった(4)。と同時に、それが上から強制されたものであった以上、他方で民間の遊芸に対する統制を伴わざるをえなかったことが注目されるべきである。岡山城下での盆踊りに対する規制がいつ始められたかは不明であるが、寛文十年(一六七〇)の町触に、「如例年ノ盆之おとり御法度候まゝ、おとらせ申ましく候」とあり、「幼少之子共銘々ノ裏屋敷ニて、五人、拾人おとり申候事前々之ことく不苦候」と許されながら、「成人之ものゝ集り、人よせ仕候而おとり申ものハ堅無用ニ候」、「町筋ニておとり申候事まへまへ之ことく御法度候」と規制されている(国富家文書「御触留」(5))。しかも、城下での遊芸に対する規制は、盆踊だけでなく、五月節句や春秋の氏宮祭礼などにまで対象を広げ、延々と幕末まで続けられている(6)。何か事があれば、「成人」が集まり、「町筋」に溢れだす遊芸のエネルギーが、脈々と流れているのである。

元禄十二年(一六九九)から、東照宮祭礼でも町方練物が復活する。承応三年(一六五四)の練物中止は、大洪水を直接の原因とするものであったが、その後光政は教化主義的色彩の極めて強い藩政改革を展開しており、祭礼の遊芸化には否定的になっていたと思われる。これに対して、光政を継いだ綱政は、芸能への関心も強く、藩政も元禄期には一応の「安定期」を迎えていた(7)。加えて、当時の元禄文化の風潮は、抑えられていた民衆の遊芸へのエネルギーを刺激したと思われる。そして何よりも、祭礼に期待された社会的統合機能からすれば、町方練物の復活は必然的であったと言えるだろう。

十八世紀前半の祭礼でも町方練物の特徴は、その内容の〈流動性〉である。元禄十二年の練物は、「カサボコ 大母衣 代神楽 小母衣 武者 順礼踊 石引」(「聞伝記」)であったが、この出し物も五年単位ぐらいで変化している。また、一年切りの演目が無造作に取り入れられるようになり、元禄十四年(一七〇一)「舞台ニ車ヲ仕掛上ニテ小原町説経トモ狂言仕用意」、元禄十五年(一七〇二)「大坂三太郎ト申十一二歳之小坊主於御旅所鎗踊ナト仕」、正徳元年(一七一一)「大黒町之者浄瑠璃小歌ヲ諷」、正徳四年(一七一四)「馬子ブシノ小歌ヲ諷」(以上同前)などの事例が知られる。このような〈流動性〉は、民間での遊芸を統制し、城下町住民の遊芸にかけるエネルギーを東照宮祭礼に流し込み、それを社会的統合の場とするためには、どうしても必要なことであった。

十八世紀前半のもう一つの特徴は、惣町による祭礼参加がすすめられたことである。例えば、元文四年(一七三九)からはじまる「庭訓売物」には、城下の全町である六十二町から物売りが出ており、祭礼費用が惣町による町役負担となるのも、この頃からのことではないかと思われる。

こうして、十八世紀前半に、東照宮祭礼は城下町住民のものとなった。東照大権現は、城下町住民にとっても親しい存在となった。しかし、このことが逆に、十七世紀に強くもっていた支配者の神としての側面を希薄にさせ、神格としてのある種の〈抽象化〉-他の神との〈平準化〉をもたらすことになったのではないだろうか。祭礼のもつ社会的統合機能は、実は〈両刃の剣〉であったと言うべきであろう。


(1)岸俊男教授退官記念会編『日本政治社会史研究』下(一九八五年・塙書房)所収。

(2)岡山の東照宮祭礼についての記述は、『備陽記』追加・巻三十二に所収された「御祭礼聞伝記」による。

(3)鳥取藩の東照宮祭礼については、『鳥取県史』5・近世 文化産業(一九八二年)第二章第一節三、による。

(4)こうした点では、久留島浩「近世における祭りの『周辺』」(『歴史評論』四三九・一九八六年)が興味深い。ただし、そこでの捉え方はいささか一面的であり、氏もあげられた課題の一部を敷衍してみようというのが、本稿の意図でもあった。

(5)『岡山県史』21・備前家わけ史料(一九八六年)所収。

(6)国富家文書「御触留・失物留」(同前)

(7)『岡山県史』7・近世2(一九八五年)第一章第一節。

(『日本思想史研究会会報』第7号掲載)

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