日本思想史研究会(京都)のブログ

本研究会は立命館大学を拠点に、歴史学・思想史の問題について時代・地域に捉われることなく、深く考えていく場として設立されました。2014年度後期例会は、個人研究テーマ報告です。

【巻頭言】 中村春作「「知識人」論の射程」

一九八九年前後に、k.v.ウォルフレンの発言をきっかけとしてなされた一連の論争がある。ウォルフレンとは、いうまでもなくベストセラーとなった「日本人論」の一種『日本権力構造の謎』の著者であるが、そのウォルフレンの「なぜ日本の知識人はひたすら権力に追従するのか(『中央公論』一九八九年一月)と題する論文に端を発し、そこで批判された等の知識人たちが反論を加える形で推移したものである。論争そのものは例によって不完全燃焼のままに終わったのだが、ただ論争の中から見えてきた両者の議論のズレが、論争がなぜ非生産的であったのかということとも関連して、私には興味深かったのである。それは端的に言えば、「知識人」という社会内存在そのものに関する、両者の理解の完全なすれ違いについての関心であった。「日本では知識人がいちばん必要とされるときに、知識人らしく振る舞う知識人がまことに少ないようである」とし、「権力行使のあり方こそ、日常の社会生活面で我々に影響を与える、他のすべての事柄を決定づける」ことから考えて、日本の知識人はその機能を果たしていないと断じたウォルフレンに対し、体制擁護的と批判された「知識人」の一人である村上泰亮は、「(現代においては)知識人固有の役割はもはやなく、一元的な科学的知識を弘布すべき啓蒙主義的知識人はその居場所を失っている。W(ウォルフレン)氏の念頭にあるような知識人は絶滅間近の珍種になろうとしている」のだ(同誌、同年三月「移行期における知識人の役割」)として、批判自体が不適当であるとした。その後も同誌を主たる舞台として応答が交わされたのだが、そこに露呈したのは、「知的な誠実さ(インテグリティ)を何よりも尊しとする」「独立不羈の思索家」「独立自尊の知識人」という、「知識人」観念の普遍性を無前提に押し立てるウォルフレンと、それを歴史的、相対的にしか規定し得ないもの、いまも変化しつつあるものとしてとらえ、そのなかで自らの役割を極力小さく限定しようとする日本側の論者たちとの間の、認識のズレであった。そして論争の勝ち負けよりもむしろ、考えされられたのは、結局、「知識人」とは何なのか、我々にとって「知識人」とはいかなる社会内存在だったのかという問題であり、また、無前提のごとくいわれる「知識人」とは何においてその有意味性が疑われないものであるのか、ということであった。同時期に「論争」を外側から批評したイアン・ブルマの言うような、「知識人とは西欧の伝統において、また多くのその他の国々でも、代弁者ではなく、真理を追求する独立した精神の持主なるがゆえに知識人と呼ばれているのだ」(同誌、同年八月)とする定義そのものの「自明」性の由来を、そうした人格を社会内に有意味なものとする社会的機制の成立を、あらためて「近代」の問い直しと共に考える必要を痛感したのである。

ところでそもそも「知識人」とは今日、どのように定義されているのか。それはたとえば、リオタールによれば「人間、人類、国民、人民、プロレタリアート、生きとし生けるもの=被造物、ないしはこれに類する何らかの実体的存在の立場に身を置いたうえで、すなわち、ある普遍的な価値をそなえた一個の主体の立場に自己を同一化[一体化]したうえで、その視点から、ある状況ないし状態を記述し、分析して、その主体が自己を実現するために、少なくともその自己実現の前進のために、何がなされなければならないか、を指示するような精神の持ち主」(『知識人の終焉』)のこととされ、サイードでは「なんらかの立場をはっきりと代表=表象(リプリゼント)する人間、また、あらゆる障害をものともせず、聴衆に対して明確な言語表象をかたちづくる人間たるべき」もの、「表象=代弁する技能を使命としておびた個人」(『知識人とは何か』)というもの、他方、いささか愚直に「どのような人々を知識人と呼ぶかについて、いまや大きな混乱が生じて」おり「知的活動と知識人を名乗る人々との間には、多くの場合ある種の乖離が見られる」と認めるダニエル・ベルの穏当な定義では「『意味』をつくり出す人々」(「転換期に立つ知識人」『知識社会の衝撃』)という最大公約数的な表現に示されるような社会的存在、とひとまずは定義されているようだ。もちろんリオタールもサイードも一定のイデオロギー的立場からの発言であることは当然のことであるが、これらいくつかの定義のなかから、「表象=代弁」し「意味をつくり出し」「自己実現」するような「個人」という、いわば近代社会における特権的存在が、共有のイメージとして浮かび上がってくるのである。しかし今日における問題は、くりかえし言えば、ウォルフレン論争の非生産性を顧みても、そもそもこうした自明的「知識人」なるものがいかにして成立したのか、そしてそれは、誰を、あるいは何を「表象=代弁」することにおいて有意味な存在たり得るのか、ということへの問い直しにあるように思われる。私にとっての関心事は、特にナショナリズムの形成、「国民国家」の想像=創造の過程で、こうした「知識人」がいかに創出され、社会内に意味を有していったのか、そしてそこには、それを支える、B.アンダーソンが定義したような、一般的で均質な「知」が、どのように「国民」の「知」として構成されていたのか、という点にある。それは当然十九世紀世界において新しく生命を与えられた「教養」という概念にも関わることである。現在、「知識人」の輪郭が不明瞭なものとなりその不在が論じられることと、大学の教養部がさしたる論議もないままに廃棄されようとしていることに端的に見いだせるように、「教養」概念が急速に社会的生命を失いつつあることとは、密接に関連していることなのだ。それは、そもそも「知識人」が「近代」に特有の存在として成立したものであり、リオタールがいみじくも定義したように「国民」と「同一化」し「国民」を内部から構成し「語る」ものとして、初めて特権的な存在たり得たものだったからである。ウォルフレンが常に立論の下敷きとする、「日本の代表的知識人」丸山真男の著述に対する近年の批判の焦点が、彼もまた「(日本)国民」という一定の「内部」を啓蒙的に内から構成し続けた人ではないかという点にあるのも、そうした「国民」を「語り」、「民族」を「表象」することを通じて成立した近代「知識人」、という根本的問題に関わっているからである。今も、民族問題の発生に「『表象の職業的専門家』の責任に負う点が少なくない」(山内昌之『民族の時代』)とされるのは、そもそも十九世紀世界において、「国民国家」や「国民」の創出と「知識人」の成立が同時的であったからなのだ。それゆえ、現在、「知識人」とは何かを問うことは、「国民国家」への問い直しや、「我々の」近代「知」への内省に密接に関わることなのである。



上記のような視野から、日本における「知識人」という社会内存在や、その自己認識の成立、そしてそれがどのようにして、一般的に共有される知的基盤のもとに形成されたかを考える際、明治初期「啓蒙知識人」成立の問題、そしてそこにおける儒教(儒学「知」)の変容という問題が重要な局面として考えられる。というのも、実質的に儒教的教養が広範に普及し、国民的な「知」の中身として血肉化(「国民的教養」の発生)したのは、江戸期よりもむしろ明治期になってからのことであり、そのことの重みを「啓蒙知識人」成立の前提条件として考える必要があると思うからである。ただ誤解を避けるために予め言っておけば、「明治人」には、江戸期からつながる漢学的素養があり、それが特有の評価すべき精神的骨格を形作っていたといったような、ある種のエートスの持続を、ここで言おうとしているのでは毛頭ない。西洋の学問・制度の流入のもとで、明治期儒教はまさしく「漢学」として全く新しい再生をなしたのであり、そこには江戸期儒教との大きな断絶がある。また明治前期において一種の「漢学断種」政策(緒方康「他者像の変容」『江戸の思想』四)が広範にとられたのも事実である。そうした断絶の存在を前提にした上で、たとえば明六社同人たちの如き、江戸と明治の二世界を同時に生きつつ、そこから「知識人」として自立を求めた試行のなかにどのような知的な変質が生じていたのか、その変質の場面を重層的な断面図で示すことで、日本における「知識人」発生の条件となったものの所在やその様態を、議論することができるのではないかと考えるのである。本稿の趣旨は、そうした問題の提示と、それに応じた方法的手続きを確認することにある。

ところで言うまでもないことだが、「知識人」という用語自体が、近代の生産物であり、江戸時代にはそれは存在しなかった。「教養」ということばも同様であり、近代においても大正期と戦後期において二度変質していると指摘されるように(筒井清忠『日本型「教養」の運命』)、歴史的概念として絶えず変質してきたのだが、広瀬淡窓などが「教養ノ術行」(『迂言』「学制」五)などというときの「教養」の語義が「教え育てる」こと、「教育」「訓育」であったように、江戸期にはそもそも今日の意味に相当する「教養」概念が存在しない。明治八年、小野梓の「教養ノ盛衰ハ文化ノ汚隆ニ係リ、国家至治ノ名、唯文化ニ待ツ有ルノミ。故ニ教養ノ事、国家政治ノ要タル也。」(「論通常之教養」『共存雑誌』一号)という発言も、名詞化され「国家」と連語される、それまでにない新たな視点や、(専門家のではなく)「(国民の)通常の教養」の必要性という新主張が生じているが、語義としては、やはり「教育」に近いものであり、明治期も半ばを過ぎて初めて今日使われる語義が登場するのである。それ故、これらの用語はここでも、常にカッコつきで用いなければならないのであるが、だからこそまさにそれは、語源の探索や語義の定義においてではなく、用語の社会内的布置を決定する知的編制が、十九世紀の言説空間のなかで、切断や変質を伴いながらどのように変容し、「国民国家」を構成する「知識人」・「教養」の成立に至ったのかという点において、詳細に検討されるべきなのである。大正・昭和期の精神史として、「知識人」概念を軸に論じた坂本多加雄は、近代日本における「知識人」「知識階級」という用語の発生を大正期に求めて、以下のように述べている(『知識人―大正・昭和精神史断章』)。

「知識・思想の生産流通に関わる人」は、既に述べたように、明治期にも、江戸期にも存在しなかった当時においては、そのような「知識」・「思想」の価値、さらに、それに関わる者の社会的存在意義が、いくつかの例は別としても、一般に後に見るほどに切実に意識され議論されることはなかった。「知識」・「思想」が有意義なものであるということは、自明の前提であった。しかるに、明治末から大正期を経て、「知識階級」、「知識人」という言葉が成立していくことと並行して、「知識階級」「知識人」の存在意義ということが、鋭く意識されるようになっていったのである。

「知識人」・「知識階級」という用語の発生と、そこにおいて生じた社会内的意味についての説明は明快で首肯できるものであるが、明治期、江戸期にも「知識・思想の生産流通に関わる人」がいたにも関わらず、「知識」・「思想」の価値が論じられなかったのは、「『知識』・『思想』が有意義なものであるということは、自明の前提であった」からであるかどうかは、再考の余地があるだろう。後にも例を出して述べるように、また多く指摘されているように、江戸期においては、そして明治初においても、ことがらは必ずしもそのようではなかったからである。ともあれ、「『知識人』という言葉は、他の様々な言葉や観念と様々な形で結び合うもの」であり、「『知識人』という言葉が不要になりつつあるとすれば、それは、まさしく、こうした様々な言葉や観念が織りなすなかで形成されてきた私たちの思考の歴史が大きな転機を迎えつつあることを暗示するであろう」とする同所の立論の前提を筆者も共有しつつ(その先の、「国民国家」論の方向に関しては、氏と考えを異にするが)、日本の十九世紀世界において、「知識」・「思想」の有用性がどのようにして新たに社会内に立ち現れたのか、それはいかなる社会的機制の変容に基づくものであったのか、そして、それ自身で価値あるものとして自明性を付与された「知識」・「思想」の質・中身がいかなるものであったのかが、今まさに問い直されるべきであると考えるのである。

佐藤慎一は『近代中国の知識人と文明』の冒頭で、貝塚茂樹が目撃したエピソード、著名な老儒(柯劭*)が「『四庫全書』には中国の書ばかりをとっているが、聞くところによると泰西の諸国も近来学問がだいぶ進歩したというから、今度の『続修』には、この西方の蛮夷の著書も少しは採用してもいいのではないか」と、民国十七年(一九二八年)の編集会議に至っても語ったという、たいへん印象的な逸話を紹介しつつ、中国の伝統的知識人」にとって、華夷秩序思想から近代文明論的自己認識への脱皮がいかに困難な知的組み替えであったか、そしてそうした新たな文明論的相対観に基づく「国民国家」の内在的理解が、彼らにおいてどのように屈折して進行したかを説得的に論じているが、一方日本における「知識人」は、そもそもどのような課題を担うことによって、社会内的存在として出現し得たのか。それを考える際、先ず問題になるのが、江戸期後半から近代へかけての「儒者」から「知識人」への転換のありようである。

すなわち、中国清末から民国初にかけての「読書人」から「知識人」への転換の躓きの石が佐藤の指摘するように、華夷秩序思想の読み替えに顕著に表出されるとしたら、そもそも知識人階級という社会区分、M.ヴェーバーがドイツ教養市民層と対比しつつ使った表現を使えば、(中国読書人の)「人文主義的教養の資格証明に相似た」「社会的『教養』身分」(野田宣雄『ドイツ教養市民層の歴史』から引用)に相当する「身分」が存在しなかった日本において、いかなる思想的生地や、共有する「前教養」的基盤から「国民」を語る「知識人」が発生し得たのか、そしてそこにおける躓きの石は何だったのか、という問題である。

2

先にも引用した佐藤慎一は、別稿でむしろそれ以上に、ここでは(梁啓超においては)、かつて小島祐馬が「知識階級の支配」と名付けた伝統的支配構造の崩壊が鋭く自覚されているのである。

・・・そして梁啓超が、「政治」「学問」「道徳」の「過度」として見たものは、夫々まさにこの「三位一体」の内容の崩壊に他ならなかった。もはや、旧来の意味での「知識人」の権威を支える根拠は、どこにもないのである。逆に言えば、この段階においてなお、「知識人」が有意味な存在であり続けるためには、少なくとも、その知識内容の転換と、社会的役割の転換とが、共に必要とされであろう。(「『清末啓蒙思想』の成立」『国家学会雑誌』九二巻、五・六号)

として、「官僚的支配から思想的啓蒙へ」の方向に伝統的知識階級の「脱皮」が「半ば必然的」に行われざるを得なかった事情を言うが、伝統的に知識を有することそれ自体が社会内に意味を持ち、目に見えるかたちで一定の階層を構成していた中国と異なり、周知のごとく、近世以降の日本社会にそのような実体はなかったのである。

旧中国において勝義に社会なるものは士大夫の社会であった。庶民とは原理的に言って欠如態における士大夫であり、不十全なる士大夫、或は士大夫に周辺的なもの、の謂に他ならなかった。(島田虔次『中国における近代思惟の挫折』)

とされる知識階層のありかたに比して、江戸期の日本は、

中村深蔵[蘭林]、宝暦頃の奥儒者たりしとき、唯一人敬礼するものもなく、当直に出れば、若き小納戸衆など、孔子の奥方御容儀は美なりしや醜なりしやなど問て、嘲弄しけるとぞ。余りに甚しきことならずや。明安の頃、節倹の政令厳刻なりしとき、其旨を希ひし作事奉行より、昌平の聖堂は第一無用の長物なれば、取崩し然るべしと建言せしを、国用掌れる老職、水の羽州聞届て、既に高聴に達せんとて、ご用取次衆に申けるに、取次衆、聖堂と云もの何なることを知らず。奥右筆組頭大前孫兵衛に、聖堂に安置あるは神か仏かと尋しかば、大前、たしか本尊は孔子とか云ことに候と答ければ、取次衆、其孔子と云は何なりやと又尋ければ、大前、論語とか申書物に出候人と承り候と答けるに。・・・(『甲子夜話』巻四)

と松浦静山公に慨嘆されるような状況にあったのであり、そうした環境の中に「儒者は一人の芸者なり」(熊沢蕃山『集義和書』)とする自嘲や、「それ学んで以て仕ふる者は士の道なり。然れども今の政、儒者に議せずしてその治隆んなり」(皆川淇園『文集初編』巻一)とする述懐が存したのである(こうした近世の知識層をめぐる日本・中国・朝鮮の間の相違の部分(読書人・両班・御儒者)に関しては、渡辺浩『東アジアの王権と思想』に三点測量のかたちで明快にその差異が示されている)。そしてこうした社会ないでの居所のなさを嘆ずる儒者の発言は、幕末に至っても当時の儒学の中身や、世間の儒者そのものへの「鸚鵡芸」・「腐儒」等々といった内的批判の中に綿々と吐露され続けたのであった。

そして、こうした江戸期の儒者と、明治初の啓蒙知識人の言述を対比するとき、そこには埋めがたい溝が歴然とあるように見える。佐藤が清末民初の中国に指摘するような、「半ば必然的な」知識階層内部の知的組み替えの苦闘とは位相を異にして、明治初「啓蒙知識人」たちは、過去との決別とともに、まさに新しく世界を始めるように、自らの学問の自立と「知」の独自の領域の意味を高らかに述べるのである。

今我より私立の実例を示し、人間の事業は独り政府の任にあらず。学者は学者にて私に事を行ふ可し。・・・学術以下三者も自ら其所有に帰して国民の力と政府の力と互に相平均し、以て全国の独立を維持すべきなり。(「学者の職分を論ず」『学問のすゝめ』)

福沢諭吉のこの論文は、同時期の「知識人」を批判し私立学校の意義を論じたもので、この問題は後に『明六雑誌』において論争として展開し、背景にはまた、福沢の「一身独立して一国独立す」の大きなテーマがあるのだが、それらの点を別に、ここでは、学問の自立的価値(「学者」の任)と、「学術」が「国民」創造に関与することが自明のごとくに述べられている点に注目したい。そうした「学問」の自立的価値と「国民」形成を、より端的に表現するのは、小野梓の次のような発言である。

一国ノ独立ハ国民ノ独立ニ基ヒシ、国民ノ独立ハ其精神ノ独立ニ根ザス、而シテ国民精神ノ独立ハ実ニ学問ノ独立ニ由ルモノナレバ、其国ヲ独立セシメント欲セバ、必ラズ其民ヲ独立セシメザルヲ得ズ。其民ヲ独立セシメント欲セバ、必ラズ先ヅ其精神ヲ独立セシメザルヲ得ズ。而シテ其精神ヲ独立セシメント欲セバ、必ラズ先ヅ其学問ヲ
独立セシメザルヲ得ズ。是レ数ノ天然ニ出ルモノニシテ、勢ノ必死ナルモノナリ。(「東京専門学校開校祝辞」)

ついこの前までの姿とは異なり、学問それ自体での意義の確立と自らの「知識人」としての自負が、ここには明瞭に示されている。そしてそれがともに「国民」の創造に直にかかって云われているところに、「啓蒙知識人」の成立と「国民国家」創出との緊密な関わりが見て取れるのである。ところで、こうした、江戸時代を通じての「身分」として目に見える知識層の不在と、それらと連続し重複する明治初の「知識人」たちの、社会内存在としての自立の主張、「学問」それ自体での価値の主張、との間の距離を私たちはどう考えたらよいのだろうか。もちろんそこに、西洋の学問・政治の衝撃があったことは言うまでもないが、そうした外部からの契機に触発されつつ、内部において何がどのように発生したのか。その間における知的変質を、思想家個々人の内面的葛藤としてではなく、連続する時間内での知的編制の変容として、社会史的観点を導入しつつ語ることができないだろうか。そしてそれを、後の「国民」創造の中身に直接関わるものとして対象視する視点を提示できないだろうか。

中国近代知識人の形成における、「読書人・士大夫」からの質的転換との相異なる側面もさることながら、私がそのようなことを構想するのは、一方に、ドイツ「国民国家」形成の解明に関してなされた「教養市民層」への社会史的思想研究を想起しているからである(野田宣雄『教養市民層からナチズムへ』。フリッツ・リンガー『読書人の没落』、『知の歴史社会学』など)。彼らが、ドイツ「国民」形成の様相を決定づけた「教養市民層」の成立に関し、「その『教養層』の均質なイデオロギーのようなもの」の形成を、知識人の歴史的起源、学歴、社会的地位全体を描写することによって、知識人がある種の考え方を自明のものとし、一見してそれとわかる独特の反応の仕方をしたということを示したい。(『読書人の没落』)

知識人界は場として研究しなければならないという確信を、私は徐々に深めている。当然、それらはある実体であり、したがってそれを諸個人の集積に還元してはならない。それを研究することは、少なくともさしあたり次のようなことであると言えよう。すなわち、個々のテクストに示される表立った目論見から目を背けることにより、共有されている知的習慣と集合的意味に関心を集中するということである。・・・言うならば、ここでのひとつの狙いは、表出された思想の表面をくぐって、文化的前意識、すなわち暗黙の信念と認知的性向の領域にまで到達しようとする点にある。(『知の歴史社会学』)

といった観点から分析し、総体としての「知識人」世界の成立と、そこにおける問題を描きだそうとする試みやその手法が、日本の十九世紀、反徂徠の運動以降、明治初に至るまでの知的世界の推移を分析する上で示唆するところがあるのではないだろうか(ここで想定しているのは、いわゆる「寛政異学の禁」以降、明治第一世代までの百年足らずの間における知的編制の変質である)。

前述した「知識人」の成立における江戸後期と明治初期の間における、意識の断絶においても、明治において一朝姿を異にしたのだとして、その間の連絡のありようを考えずにすむわけはないのは当然だが、それを、「これまでの伝統的学問と西洋学との接合・折衷」(松本三之介『明治思想における伝統と近代』)とする観点(教義や理念の組み替えへの視z)や、そこに内在的「近代」の芽を合目的的に読み込もうとするのではなく、あるいはまた「(学問としての)儒教は、明治思想の形成において、なんら創造的な役割を果たさなかった」としつつ儒教と西洋学とが「一人の思想家の内面においておりなす葛藤のドラマ」着目する(渡辺和靖『増補版明治思想史』)といった、類型化と個別のドラマに還元するのでもないかたちで、この一筋縄でとらえがたい、雑然とした十九世紀の思想世界を語ることができないだろうか。すなわち、今日の「国民国家」形成一般を論ずる問題構成から、「儒者」と近代「知識人」成立との間を媒介したであろうものを、「国民的教養」形成に関わっていく儒学「知」の変質という視点から捉え、それを、歴史社会学的側面から読み出してみる可能性ということである。そのようにして初めて、我が国における「知識人」や「教養」の成立が、批判的に吟味され得るのだろう。

(広島大学助教授)

(『日本思想史会報』第16号掲載)


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