日本思想史研究会(京都)のブログ

本研究会は立命館大学を拠点に、歴史学・思想史の問題について時代・地域に捉われることなく、深く考えていく場として設立されました。2014年度後期例会は、個人研究テーマ報告です。

【書評】 澤井啓一「知識はイデオロギーを越えられるか?―渡辺浩『東アジアの王権と思想』を読んで」

本稿は渡辺浩氏の『東アジアの王権と思想』について論評することを目指しているのだが、一般的な意味での書評とはいささか異なるものになるだろう。それは本稿で取りあげるのが主要には「はしがき」と「序」に限定されるからである。しかしその理由は、その他の論文がすでに別々の機会に発表されたものだからではない(これらの諸論文、とりわけ本文および注で示された詳細な「実証的」指摘は、近世日本思想史の研究を志す者にとって有益であるに違いない)。本書の「はしがき」と「序」のなかで、渡辺氏が、既発表論文を一冊の書物にまとめるにあたって、その全体像を示すためにつけられた書名のもつ意味と、その際に新たに施された改訂について述べているからである。既発表の論文をまとめて出版することはありふれたことだが、それらがある明瞭な意図のもとに生産されたとして自らを説明することはそれほど多くはないだろう。本書について論評するには、まず最初にそうした渡辺氏の言説に対して向かい合う必要がある。

渡辺氏は近世日本思想史の研究者のなかでもいち早く中国・朝鮮との比較の必要性を主張し、前著『近世に本社会と宋学』や本書に所収された諸論文においてその該博な知識の一端を示されてきたのだから、東アジアと銘うった書名についていかなる見解を提起しているのかは興味の惹かれるところであった。しかし「はしがき」ではいささか屈折した議論―同業者ないし日本以外の東アジア各地域を専攻する研究者に向けてのたぶんに防御的な議論―が展開されているばかりである。まずアジアという観念がヨーロッパで成立したものであることが説明され、ついで『和漢三才図会』を引用しながら、現代の「東アジア」に相当する地域に他とは異なる共通の特色があるという意識(漢字文化圏・箸文化圏の意識と要約されている)が存在したこと、その基盤として「人と物の往来、言語・風俗・文化・制度そして思想の流通」が「かなり濃密にあった」ことが指摘されている。そして日本思想史の研究においてこうした「相互交流を蒸し」することは「理解の深化に重大な限界」をもたらすと結論づけている。一般論としてはまさにその通りである。しかし近世日本とそれに対応する中国・朝鮮という本書が扱っている地域と時代を考える場合、「相互交流」といった表現を用いることが適切なのかといえば、大いに疑問である。というのも、東アジア全般の歴史的経緯における近世日本は、かつてそれ以前に存在した広範な人と物の交流―モンゴル帝国の成立という事件が端的にそれを物語っていると思われる―が冷え込んだ時期に相当するからである。日本の「鎖国」とまではいかないまでも、中国・朝鮮も対外交渉に消極的であった。こうした閉鎖的な領域が確定されるなかで、それぞれの地域に固有の色彩を帯びた思想・文化が以前にもまして明確な形をとって形成されていったのである。つまり、この時期の東アジアには「相互交流」などという事態はほとんど存在していなかった。

揚げ足取りをしているつもりはない。東アジアへと議論を拡張するに際して、渡辺氏が実際には見いだしがたいはずの「相互交流」をことさら強調したことに含意されている問題はなにかということを考えてみたいのである。さきに述べたように、この時期の日本はある程度閉鎖的な状態にあったし、モンゴルの直接的な影響をほとんど受けなかったことからも見てとれるように、他の東アジアの地域と比較して孤立的と言えるような歴史的経緯があった。それゆえ従来の研究においては、近世日本思想史を一つの閉じられた領域における変遷として扱うことが可能であったし、また一般的であった。こうした研究状況を大解するために渡辺氏は東アジアという枠組みへと歩を進めたと思われるのだが、その渡辺氏にあっても近世日本思想史は一つの閉止領域として特権化されている。「相互交流」という言葉はそうした渡辺氏の問題点を明らかにしている。東アジアという枠組みを持ち出しながらも、中国ないし朝鮮における思想史は、渡辺氏にとってあくまでも近世日本思想史の「理解」を「深化」させるための補助材料でしかない。たとえば「儒学史の異同の一解釈」という論文の冒頭で、近世の中国と日本における儒学思想の歴史は「広義の『朱子学』が有力な軸として存続し、他方、それへの批判も相継いだ」という点で「儒学史の基本構図が似ている」と述べているように、渡辺氏は中国の儒学史と日本の儒学史をそれぞれ別個のものとして発想している。すくなくとも、この発言からは「朱子学」を出発点とした東アジア全般にわたる儒学思想の展開を推究しようという意図を見いだすことはできないだろう。渡辺氏にとっての東アジアは、日本を中心に、中国・朝鮮といったそれぞれに閉じられた個別の地域の寄せ集め、せいぜいのところ「相互交流」としてしか関連づけることのできない空間なのである。

儒学思想を軸とした東アジア全体の思想史といったような、東アジアを一つのまとまった領域として扱うことに渡辺氏がためらいを覚えるのはある意味で理解できる。東アジアを一つの領域として認定することには、「アジアは一つ」といった過去の日本で唱えられたスローガンや最近盛んに主張されている「儒教文化圏」と言った議論との親和性がつきまとうからである。それゆえ推測にすぎないのだが、「王権と思想」という題名の選択には「儒教文化圏」と一線を画したいという配慮があったと思われる。所収された論文の多くが儒学(儒教)を扱っているのにもかかわらず「王権と思想」という表現が採用され(奇妙なことに英文タイトルには「Confucianism」という言葉が見られる)、それにもかかわらず「王権」という語の使用については、「世襲王権の在った時代」の「政治思想」を対象としていることの「暗示」だという以上の説明はない。たしかに儒学の王覇論などは扱われておらず、かえって国学の「皇国」意識が扱われているから、「王権」という語を用いてもさしつかえないのかもしれないが、東アジアにおける「王権」についてもう少し論じる必要があったと思われる。ひところ流行した「王権論」の導入までは期待しないにしても、この時期の東アジアに展開された儒学の主要な命題の一つが、王を中心とした一元的な支配を前提としながら、そこにおける王と臣のあるべき姿をいかに体系づけて説明するかということであったとすれば、それに対して近世日本では―二元的と言ってしまうと、渡辺氏が「序」において強憂く主張しているように、その時々の状況と齟齬をきたすかもしれないが―不明瞭な政治体制が存在し、白石、徂徠といった儒者や国学・水戸学の言説にそのことが反映されているとするならば、近世東アジアにおける政治体制とそれをめぐる言説の基本に関わることとして、「王権」の問題は「世襲王権」という事実の指摘だけで片付けてよいはずがないからである。

渡辺氏が王権論について言及を避けたことには、さきに指摘した東アジアの儒学論を展開する意図がないということに相通じる問題が横たわっている。渡辺氏は何々論といった形式の議論を自らが作りだすことを忌避しようとしてる。たしかにこの種の議論では、全体像や推究上の到達点があらかじめ設定され、完結的な〈物語〉を語るかのように議論が展開されるという問題がある。それを回避するためには理論ないし方法論の妥当性が問われるのだが、普遍的な妥当性を獲得することが困難であるのもまた事実である。そこで渡辺氏は、予断を避け、その当時の社会の在りようを詳細に叙述することによって、思想をあるがままに浮かび上がらせるという手法を選択した。本書の主要な論文はこの手法に基づいて書かれているし、本書の書名が全体像の提示であるように見えてじつは渡辺氏の関心の広がりを暗示しているにすぎないということも、ここに理由がある。だが、この手法を成功させるには、ある時代の社会の実像を十全に描きうるようなディテールを探しだす時間とエネルギーが必要である。またそれ以上に、そうしたディテールを語るにあたっては可能なかぎり語り手である自己の姿を消し去るという自己抑制の力も必要とされる。ディテールの選択が語り手の予断に基づくものだと読者が気づいたとたん、この手法はたんに情報を提供するだけのものに堕してしまうからである。それを避けるためには、読者を眩惑させるにたるだけのプロットやストーリーが必要であり、なによりも読者を語り手の関心の範囲内に押しとどめておくことが不可欠である。

「序」で述べられた「日本史用語」に関する議論は、渡辺氏が自らの手法を防衛するための装置である。一見したところ適切な用語選択の問題という形式をとっているが、これは明らかにイデオロギー批判である。「幕府」・「朝廷」といった用語が問題になるのは、近世日本の曖昧な王権の在り方に由来し、その曖昧さが時間の推移とともに変化してきたからに他ならない。そしてこのことは、近世日本を対象に研究する者のほとんど誰でも渡辺氏の指摘を待つまでもなく―渡辺氏が引用された文献すべてを熟知してはいないまでも―知っていることである。王権の曖昧な在り方もしくは変化それ自体がテーマとなる場合はともかくとして、それ以外では「幕府」か「公儀」か、「朝廷」か「禁裏」かといった用語選択の問題はそれほど重要ではない。というのは、歴史用語といっても、それが言語である以上、その伝達機能には限界があるからだ。言語によって伝達されるのが指示対象そのものではなく、そのイメージ(言語を使用する人々によって共有されたイメージ)であるということはもはや常識である(「制度・体制・政治思想」という文章を書いた渡辺氏がそのことを知らないはずがない)。渡辺氏は「幕府と朝廷」に代えて「公儀と禁裏」と言えば、「現在の通念とはやや違う図柄が浮かび上がってくるはず」だと主張するが、それは渡辺氏が「公儀」・「禁裏」という語に特別な意味(イメージ)を付与しているからである。渡辺氏がこうした新たな用語を提示したところで、「幕府」・「朝廷」という語が示している内容に曖昧な問題が存在していると認識している者にとっては代用品の提供という以上の意味はなく、逆に近世日本についてほとんどなにも知らない者にとっては意味不明の言葉が新たな二つきつけられただけのことである。

問題なのは、「幕府」・「朝廷」といった用語における「現在の通念」といったものを渡辺氏が肥大化させていることにある。これらの歴史用語が近代日本で生産されたイデオロギーを帯びているのは当然のことである。なぜなら歴史学、あるいは学問それ自体が近代日本において生産されたからである。したがってこうした用語に潜む近代日本のイデオロギーを暴露し、それを批判することは無意味なことではない。しかし渡辺氏の議論はそれとは異なる効果を狙っている(渡辺氏に近代日本のイデオロギーを批判する意識があったならば、他の用語についても同じような配慮が働いたはずである。たとえば、その当時には使用されることがなく、近代以降のイデオロギーが注入されている「国学」という語など、その典型である)。そこでは「後期水戸学」とか「皇国史観」という言葉が使用されているからである。言葉の使用に厳密な渡辺氏が、戦前における自称としては稀で、かえって戦後の批判的叙述のなかで頻繁に使用されてきた「皇国史観」という言葉をあえて用いた意図は明白である。「幕府」・「朝廷」に関する「現在の通念」のなかにそれを組み入れたかったからに他ならない。中世以来の武家政権といった程度の意味で「幕府」という語を用いているところに、「皇国史観」の共犯者というレッテルは絶大な効果をもつことだろう。このことにょって、「公儀」・「禁裏」という語の使用はmそれがなぜ代替の用語としてふさわしいのかという理由が明示されることなく―渡辺氏は「当時最も普通の呼称を使うのが、自然である」としか述べていない―特権化されるのである。

「最も普通の呼称」と渡辺氏が述べているのは、言葉の使用頻度のことであろう。たしかに使用頻度から、政治的文書において顕著なように、特定の個人や集団に固有の意識を導き出すことはできる。だが、その逆を想定することも可能である。すなわち特別な意識が働かないかぎり、もっともありふれて慣れ親しまれた言葉が選択されるということである。さらに独創性は使用頻度という基準では測れない。結局のところ、使用頻度は多いか少ないかということに帰着し、ある言葉を概念用語とするための保証とはならない。概念用語の保証は、それを使用する側の理論や方法論、あるいは価値観によってなされるしかない。そして、じつは渡辺氏も使用頻度以外の尺度を使用しているのである。ただ、渡辺はそれを「歴史認識の臣下」によってのみ到達可能な近世日本社会の真の姿としてしか語らない。たしかに渡辺氏が獲得した近世に本社会に関するディテールは他の人々よりも「深い」かも知れないが、それは渡辺氏が思い描いたかぎりにおける近世に本社会の〈実像〉でしかないのである。ディテールの集積が〈実像〉であるという確信が何によってもらされたのかということは、渡辺氏が論文のなかにちりばめた大量の知識(渡辺氏によれば「事実」だろうが)によって隠蔽されている。

あまりにもきらびやかに知識がしめされているがゆえに、韜晦といえるかどうかは分からないが、じつは私はこうした渡辺氏のスタイルは嫌いではない。しかし、「はしがき」と「序」を読みながら違和感を覚えたのは確かである。渡辺氏が何にいらだっているのかは定かではないが、自らのスタイルを楽しむのではなく、他者に強要するという姿勢が強く感じられたからである。言葉に隠蔽されたイデオロギーの暴露は、宣長に代表されるようにイデオロギー闘争の常套手段である。だが渡辺氏の場合、それが明示されていない。内部に向けてのイデオロギー統制ではないと思うが、その目的をもう少し渡辺氏は語る必要があるように思う。(1997年、東京大学出版会、3,400円)

(恵泉女学園大学教授)

(『日本思想史研究会会報』第16号掲載)

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