日本思想史研究会(京都)のブログ

本研究会は立命館大学を拠点に、歴史学・思想史の問題について時代・地域に捉われることなく、深く考えていく場として設立されました。2014年度後期例会は、個人研究テーマ報告です。

今年度後期例会は終了しました

2014年度例会は、先日の例会をもって終えました。

また、広報担当:岩根も本年度をもって、広報担当から退きます。

新しい体制が決まり次第、順次お知らせします。

今後とも本研究会におきまして、温かいご支援のほどよろしくお願い申し上げます。
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2015年1月29日例会につきまして

山鹿素行の教育思想論再考―「兵民」育成を中心に

報告者:中島英介(蘭州大学)


主要参考文献
○前田勉「近世前期の学校構想―山鹿素行と熊沢蕃山との対比」(『日本文化論叢』二一 二〇一三)
○拙稿「山鹿素行の教化論―『武教小学』・『山鹿語類』の差異を中心に」(『日本経済思想史研究』一三 二〇一三)
○内山宗昭『教育思想の研究―山鹿素行の教育論の考察を中心に』2013
○山本眞功「武士道論争」(今井淳・小澤富夫編『日本思想論争史』〔ぺりかん社 一九七九〕所収)
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2015年1月22日ミニシンポジウムについて

○ミニパネルセッション「東アジアにおける儒学的儀礼の理論と実践」(コーディネーター:高橋恭寛)

・趣旨:
 東アジアの諸地域における儒教思想の「実践」に関わる学術研究は、一身の内省から、学塾における教育や政治改革の理論的背景まで、幅広い射程を有して行われてきた。
 しかし、風土の異なる東アジア諸地域のなかで「儀礼(礼楽)」という具体的場面における儒教儀礼の実現をどのように模索していたのかという点に関して、中国や李氏朝鮮に関しては、少なからず存するものの、日本の場合、ほとんど手が付けられていない。儒学が浸透した中国・朝鮮とは異なる徳川社会において、儀礼や作法などを直接そのまま反映させることは不可能に近かった。しかし、それは中国や李氏朝鮮と異なり、日本の儒者が葬礼以外の儀礼に言及せず、儀礼の受容への試行錯誤をしていなかったことを意味するわけではない。
 今回、葬祭礼、釈奠(学校礼)、楽律という三つを取り上げ、徳川期の日本を中心にしつつも、東アジア諸地域のなかでそれらがどのように把握されていたのか、また「実践」を試みられていたのかを三人の若手研究者の方々に発表していただく。それによって、理気論や道徳思想などと異なる、具体的な礼楽・作法の振る舞いという視点から、儒学思想の受け止め方の一端の解明を試みたい。(文責:高橋恭寛)

・報告①:李月珊(東北大学大学院)「近世における公家釈奠の伝統」
・報告②:榧木亨(関西大学大学院)「近世日本における『律呂新書』研究―中村惕斎を中心として―」
・報告③:松川雅信(立命館大学大学院)「『家礼』受容史雑考―闇斎学派をめぐって―」
・コメント:高橋恭寛(東北大学専門研究員)
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2015年1月15日井上報告につきまして

近世後期における真宗寺院の社会的役割―北関東移民「入百姓」の導入過程を題材として―
報告者:井上 幸子


本報告は、近世後期の北関東で広範囲に導入された、真宗門徒の「入百姓」という移民の導入過程を通して、当該期の寺院、特に真宗寺院の社会的役割の一端を考察するものである。
 
近世後期には荒れ地が多い北関東や北陸の農村復興策の1つとして、幕領や私領において、北陸真宗門徒の移民(以下「入百姓」とする)が実施された。この入百姓という言葉自体は、近世おいて荒れ地の多い村に他村から移住し耕作した農民をさす。18世紀末の寛政期には、天明の飢饉に代表される度重なる饑饉による人口減少、商品経済の発展に伴う労働力としての江戸への人口流出、などが原因となり、北関東・東北の農村は農地の荒廃が著しかった。そこで、この地域の幕領代官、私領の藩主たちは、逆に真宗の信仰に基づき子供を「間引く」事を極端に嫌い、そのため農村には次男・三男と人口が増大し、耕地縮小で困窮していた北陸真宗門徒の入百姓を寛政期以降、領地に導入していった。
 この問題はすでに、幕政や藩政改革といった経済政策の側面から、様々な先行研究が発表されてきた。自治体史編纂においても、各地域の入百姓の実態が紹介されており、村に残る史料は概ね集成されている。しかし何故真宗という仏教宗派が関わった結果、入百姓たちは、現在でも集住地の集落を形成し、定着しているという効果を出すことができたのか、という疑問には、信仰に導かれた門徒の倹約生活を成功の要因とする論考が多い。それも要因の1つとは考えられるが、個々人の努力のみに理由を求めるだけでは不十分である。近世の封建制度下において農民の移住には大きな困難を伴うともされてきた。それにも関わらず移民が可能になったことについて、真宗の各本山からの積極的な働きかけを想定すべきであり、まず、この働きかけの状況を精査していくことが、近世期における真宗寺院の社会的役割を示す糸口になると考える。

〔参考文献〕
『親鸞と東国門徒』今井雅晴 吉川弘文館 1999年
『蓮如』神田千里 山川出版社 2012年
「北陸門徒の関東移民」『史林』第33巻6号 五来重 1950年
「常陸国稲田西念寺の入百姓資料」『地方史研究』第12巻6号 坂井誠一 1984年
「寛政六年~天保元年 下野国八条村掛所記録」
『栃木県史 史料編 近世三』栃木県 1975年
「入百姓と浄土真宗」『牛久市史近世編 第7章第7節』田海幸子 2002年
「即乗跡譲渡取調一件帳」『新潟県史 史料編10 近世五 流通編』新潟県 1984年
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2015年1月15日例会につきまして

報告題名:江戸後期国学者の朝貢図――華夷思想に対する再検討

報告者:高

【要旨】

華夷思想は前近代の東アジア世界において、自他認識のパターンとして大きな影響力を持っていた。儒学の伝播に伴って東アジア世界に浸透する一方、新しい特徴を備えてきた。日本の場合、江戸時代に日本型華夷秩序が存在しているかどうかについて、多くの議論がなされて定説がないが、日本型華夷思想は意識として確かに多くの文献から確認できる。西洋の接近に伴って、日本型華夷思想は解体していると言われているが、如何なる次元で解体といえるか、後の自他認識展開はもとの華夷思想と如何なる関連があるか、議論の余地がまだ大きいと思われる。
本報告の前半は中国前期儒学と後世(宋代を中心に)における華夷思想を触れる。前期儒学の華夷思想は、理念上、「華夷」には次のような関係が存在してる。治めるかと治められるか、「徳」を施すかと「徳」を受けるか、「貢」を受けるかと「貢」を献ずるか、征討の名義がありうるか。これに対して、倫理道徳という文化価値の共通性、「夷」は教化を受けて「華」に変わり得る、「中国」の主となって天子となり得る――こういった「華」の開放性。この推論の延長線にある天命の可変性、天子の可変性、王朝の可変性が挙げられる。前者は「対立」で捉えるとすれば、後者は「統一」に当たると言えよう。言い換えれば、「華夷」には「対立」と「統一」の弁証的な関係が設定されている。
宋代の華夷思想では、排撃的性格が顕著になったと見られる。中華、中国を宋に限定し、遼、西夏、金、元などをあくまで夷狄とみなし、儒学の原理を実践している高麗に対しても「華」の性質を認めないという閉鎖性が目立っている。原理上開放的に設定されていた華夷世界は、具体的な歴史展開に伴って、華夷の「統一性」が薄れ、「対立性」が浮上する、という可能性がありうると考えられる。この時期も「文化」を論じているが、華夷の共通価値か、夷狄がこれをもって中華に上昇するかという関心からの叙述ではなく、自民族正統論、優越論のナレーションという性格が多いと言えよう。
これを踏まえて、報告の後半は江戸後期の国学者平田篤胤・大国隆正の自他認識を考察する。
平田篤胤の描いた朝貢図は確かに、夷狄への「徳化」を重視し、文物典章に誇りをもつ前期儒学の理念上の華夷秩序と相違している。篤胤の構図には、夷狄と「中心」の間には絶対に超克できない断絶が横たわりて、相互に転化出来ないものとされている。にもかかわらず、「中心と周辺」、「朝貢関係」、「無限の天下」などの華夷思想における構造がその構図には認められる。また、荒野泰典(1988)の「日本型華夷秩序」論からみれば、篤胤の朝貢図はまた「日本型華夷秩序」(想像上)の一種として見ることができよう。ただこの構図は華夷の「統一性」を切り捨て、「対立性」を取り入れている。
大国隆正の自民族中心の論理は、「瓊和」を天子(天皇)のカリスマとし、夷狄が君主の道徳に引きつけられて、日本を中心とする世界秩序が形成される、と道徳的要素に日本の求心力を求めている。また、「内臣・外臣」のような概念が取り入れられて、構造からみれば、大国隆正の描いた朝貢図は中国の華夷思想に接近していると言えよう。もちろん、他者は「我」への転換という通路がまだ閉ざされた。つまり「華夷之変」が原理的に不可能とされている。しかしながら、隆正のこの構図は一つの「日本型華夷思想」として位置づけることが恐らく差支えがないであろう。
まとめとして、
中国前期儒学において、「華夷之変」(特に夷狄が華夏への上昇)が理念的に大きな可能性と寛容性が設定されていた。つまり、「華を以って夷を変ず」という敷衍で天下一同の華夏の実現が最大の政治理想として描かれていた。しかしながら、後世にいたると、特に宋代の場合は、漢民族王朝の弱体化、他族王朝政権の膨張などにより、この時代の華夷思想はやや強い排他性と閉鎖性を帯びてきた。「文化」は華夷思想において重要な意義を持ちながらも、この時代では異なったニュアンスを持ってきた。変容した華夷思想、特に周辺地域の「華夷思想」は「文化」という要素が排除された場合でも、構造と叙述が類似性を持つ限り、広義的な(非典型的)華夷思想と考えられよう。平田篤胤・大国隆正の自他認識に関して、華夷思想解体後の思想展開という位置づけは自他の共通価値を注目してその思想史意義を発見したのに対して、本稿はその対立性をも考慮に入れて、華夷思想の延長線にその思想史意義を見出していた。もちろん、すべての問題は華夷思想とは何かという素朴な問いに帰結しなければならない。そしてこの問いは東アジア思想史を見る限り未だ多くの課題が残っている。

参考文献:

平田笃胤全集刊行会编:《新修平田笃胤全集》第七卷,名著出版 ,1977-1981
大国隆正着; 野村传四郎, 松浦光修编:増补《大国隆正全集》 国书刊行会 ,2001.9
荒野泰典:『近世日本と東アジア』,東京大学出版会, 1988
小島康敬:《江戸期日本の中国認識》,收录于《日中歴史共同研究第一期報告書》,2010
桂岛宣弘:『思想史の十九世紀――「他者」としての徳川日本』,ぺりかん社,1999
桂岛宣弘:『自他認識の思想史:日本ナショナリズムの生成と東アジア』,有志舎社,2008
陈秀武: <论日本型华夷秩序的“虚像”>,《东北师大学报 (哲学社会科学版)》,2008 年第 1 期
张启雄:《东亚外交文书所刻画之转变中的中华世界秩序-- 抬头体制下近代初期的日韩名分秩序論争—》,北京大学2013年秋历史系讲义,原出处不详。
张启雄:<中华世界秩序原理的源起:近代中国外交纷争中的古典文化价值>,收录于《东亚的价值》(吴志攀,李玉 编 北京大学出版社,2010年)

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