日本思想史研究会(京都)のブログ

本研究会は立命館大学を拠点に、歴史学・思想史の問題について時代・地域に捉われることなく、深く考えていく場として設立されました。2014年度後期例会は、個人研究テーマ報告です。

5月30日方報告要旨

 竹内好の考えでは、玄洋社のアジア主義は「大陸侵略政策を隠蔽」したのでなくて、先取りしたのであり、むしろ政府の「隠蔽」に反対したのである。そしてアジア主義は民主主義とか社会主義とか、公認の思想と違って、完全自足して自立することはできない。必ず他の思想に依拠して現れる。したがって、アジア主義そのものの史的な展開をたどることはできない。さらに平野義太郎の『大アジア主義の歴史的基礎』(1945)への批判を展開した。また、黒竜会出版の『東亜先覚志士紀伝』を扱い、玄洋社=黒竜会の膨張=侵略主義の思想的系譜を究明する。大井憲太郎・樽井藤吉・福沢諭吉・中江兆民・岡倉天・心宮崎滔天などのアジア主義者またはアジア主義的な言論への批判を展開した。報告者の管見ですが、竹内は良いアジア主義と悪いアジア主義を区別する、また「アジア連携」に絶対的にプラスな性格の付与することは、本当に妥当であるかどうかというのは疑問である。

文責:方阿離
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5月23日例会報告要旨

タゴールの影響は主として文学の領域において出会ったが、その影響の性質はむしろ思想的であった。思想的といっても、デューイやラッセルの場合のように、知的啓蒙に止まるものではなく、心情的な、共鳴を伴うものであり、それだけ深かったわけであった。なぜか、両者が同じ被圧迫民族の連帯感によって結ばれていたからである。この連帯感は、タゴールと日本との関係においては、欠けていた。
 日本でタゴールを歓迎した者は、保守的な勢力、あるいはアジア主義者に近いグループであった。少なくともその方向への傾きをもっていた。したがって、タゴールは、日本では、その方向から解釈される運命にあったと言える。タゴールの詩の優美さを認めるものでも、その詩が亡国の詩人にふさわしいものとしてエキゾチックに認めたに過ぎなかった。いわんやその思想は、進歩的知識人によって受け入れられなかったのは当然である。
 タゴールは「日本の自己保存の本能以上に出ることは断じて許さるべきではない。日本はその真の力は、武器そのものにあるのではなくそれらの武器を使用する人間にあるということを知らなければならぬ」。これに対して、竹内はタゴールについていえることはほとんどそのまま他の人についても言えるように思う。外国人の日本観は、日本人がそれをどう解釈し、どう評価したかということを別にして考えるわけにはいかない。
 日本がアジアの復興のリーダーとなることを期待し、しかし、同時に帝国主義を警戒する点で、孫文とタゴールの日本観が共通であり、これは日露戦争の頃のアジア人一般の日本観だと言える。しかし、日本はこの期待を裏切った。最初に朝鮮で、次に中国で、そして最後に東南アジアで。アジア諸国の日本観も期待から憎しみへ変形していった。
 東洋人は生活的に日本人に近づく程度、愛憎の念も深くなった。インド、中国、朝鮮と並べて見て、生活の近づきの度合いが、そのまま愛憎の度合いなり、ひいては日本観の角度の違いになっているのは、興味深い。インドは一時の旅行者である。アジア的ナショナリズムの心情を除けば、西洋と近い。今度の戦争中、ガンジーが一時、日本の真意を見誤り、日本侵略がインドの反英運動にとって有利であるかのような発現し、後に修正意見を発表したが、タゴールの観察はこの種の誤解はやむ得ないのではないかと述べる。

文責:サルバトーレ・マッラ
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7月4日例会報告要旨

今回、日本思想史研究会において、竹内好の「戦争責任について」発表しました。要約は以下の通りです。



竹内は、ノートの形で、戦争責任について語られた。

一は鶴見によって戦争責任論の時期分け。一九五五は分界点。

二は戦争責任が戦争の犯罪、それにその戦争の犯罪は第二次世界大戦によって意味が拡大した。

三は丸山真男の戦争責任の観念と区別について。

四は戦争責任に対して日本人の犯罪意識の変化

五は戦争責任を負うべきに対して「戦争不在論」を強調などの論点。

六は日本国内において「戦争時期」の区分をめぐる。十五年戦争という説が定着に至った。

七は戦争性格の判断



要約を報告後、竹内以降今日に至って日本の戦争責任論はどう変化するを赤澤史郎「戦後日本の戦争責任論の動向」によって少し論じた。赤澤氏は戦後戦争責任の論争は四つの時期に分けられた。

第一段階:戦争責任論の沸騰と退潮(一九四五~一九五四)

第二段階:主体的戦争責任の提起(一九五五~一九六四)

第三期:天皇と国民の戦争責任と「戦後責任」(一九六五~一九八八)

第四期:外からの衝撃と「戦後補償」論(一九八九~)

文責:肖月
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今年度前期例会は終わりました

2013年度前期例会は、先日の木曜日の例会をもちまして、終わりました。

前期例会は、共通テーマとして「竹内好を読む」とし、

参加者による活発な議論が展開されました。

また、今年度の夏季合宿は名古屋を予定しています。

合宿の詳細が分かり次第、改めて本ブログにてお知らせ致します。

文責:岩根
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7月11日例会報告要旨

本報告では、1960年代前半の竹内における講演「方法としてのアジア」を取り上げた。最初に内容要約を行い、本講演前全体の主旨が、1948年に竹内が発表した「中国の近代と日本の近代――魯迅を手がかりとして――」を敷衍する形でなされていることを指摘した。その上で、本講演でなされた竹内の「中国の近代化」という議論が、「中国革命」の気運を鑑みながらも、他方では戦前日本の中国研究における「シナ停滞論」への読み換えとして成立していた点を指摘し、もって戦前日本のアカデミズムの動向との関連から竹内思想を位置づけようと試みた。続いて、本講演「方法としてのアジア」が、その後の思想史研究の中にあって、いかように受容されてきたかについての考察を行った。具体的には、溝口雄三「方法としての中国」「方法としての中国独自の近代」、ならびに子安宣邦「方法としての江戸」を取り上げ、各々の議論における特質とそこに内包される問題点を指摘した。最後に、いかに「アジア」は今日日の「方法」たり得るのかという問いを立て、「本物の」竹内思想の再構成を忌避する他方で、いかに我々は「方法としてのアジア」を引き受けることができるのか、という問題提起を行った。そして、かくなる問題提起に対して、殊に戦後日本への内省的な問い返しとして「アジア」は「方法」として可能なのではないか、という試論を示した。

文責:松川雅信
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7月18日例会につきまして

今週の例会につきまして、お知らせします。

報告:竹内好「日本とアジア」、竹内好『日本とアジア』筑摩書房、1993年所収

報告者:石原

報告:竹内好「近代主義と民族の問題」、『竹内好全集』第七巻所収。

報告者:山口


よろしくお願いします。
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7月11日例会討論要旨

今回は、松川雅信氏から「『方法としてのアジア』を考える」という題目で報告がなされた。まずはじめに、「竹内にとって日本とはアジアの中で語られる存在であるのか如何」という「竹内にとっての日本とアジアの位置づけ」に関する質問があった。報告者が、竹内においては、日本はアジアとは一定程度の距離感をもって語られているという趣旨で回答したのに対し、さらに質問者から、報告の中で引用された子安宣邦氏の議論について言及がなされる形で議論が展開された。この議論は、他のフロアを交えながら、子安氏の問題提起と竹内好のそれについて、主にその相違点を焦点とする形で収斂し、「子安氏が近代を問う際の氏の問題意識を考えなければならない」という形で落ち着いた。
さらに、別のフロアから、竹内が梅棹忠夫に言及している点について、竹内の梅棹評価に関して質問があった。これは竹内が梅棹の言説に関し「半分支持する」と発言したことの意味を問うたものであるが、これに対し報告者は、竹内のいう梅棹説への評価とは、アジアを単一的に捉えることへの懐疑という点での一致ではないかとの応答がなされたが、その後の議論において、竹内と梅棹の言説は問題意識や方法論的にその背景を異にすると思われるため、「半分」という意味については、より慎重に考えていくという形で報告者と質疑者は意見の一致をみた。
また、竹内の明治維新への評価をめぐってその意味を問う質問があった。これは、竹内の明治理解をはじめ、広くはその歴史認識のあり方としても一つの命題であるとした上で、主に「明治維新を如何に評価するのか。またその意味するところはなにか。」といった点を焦点に議論がなされ、質問者は竹内の明治維新への評価が、もしも西欧をモデルにした国造りへの評価とすれば、ある意味でそれはあるべき近代像を措定していることにはならないかといった趣旨の問題提起をし、それに対し報告者は、「ナショナリズム」というものの評価に関わる文脈で理解すべきではないかと応答する。それに対し、フロアから、「ナショナリズム」という言説の位置づけをめぐって、50年代~60年代の明治維新研究の紹介がなされた上で、当時の研究者の意識として、明治維新研究は、西欧列強の外圧への対応という意味において、アジアという共同体験的文脈のなかで日本を語り得る点で意味を持っていたことを述べ、それはまた60年代以降の日本をめぐる近代化論で語られるような日本をめぐる非アジア的位置付けを志向するような議論とは区別されるとし、前述の議論と当該期の言説との相関関係の面白さを指摘した。
総じて、報告者の「“アジア”はいかに今日日の“方法”たりえるか?」という問いに対し、フロアそれぞれの問題意識を交えて率直な意見交換がなされた点で、有意義な議論だったのではないかと思う。

文責:風間健
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7月4日例会沈報告要旨

本報告では、一九七四年に出版された『転型期』を取り上げ、敗戦後から七〇年代半ばまでの時期を戦後日本の「転型期」としてとらえ、当該期における竹内の思想の意味を検討した。
とりわけ、戦後日本の思想を、「政治」の可能性が封鎖されたなかで、自由民主主義/共産主義という二つの「理想」への競争としてとらえつつ、竹内をその両者のいずれにも属せず、「方法としてのアジア」という第三の道を選んだ思想家として検証した。
「方法」と「アジア」というのは、単なる連帯・友好を意味するものではなく、「政治」を喪失し「動物」的な生を営んでいた当時の日本人に、「ドレイの絶望」と「人間としての再生」といった弁証法的な主体形成の契機をもたらすための隠喩的な概念であった。これは戦後日本の民主主義や、今日における諸問題を考える上で、とても大事な意味をもつ方法論・認識論として位置づけられよう。絶え間ない自己否定をつうじて固定的な主体ではなく、つねに動じつつ変化する主体を発見することこそ、竹内にとっての「革命」であり、それらの集団がまさに新たな政治の審級において主体となる「民族」であったのである。
だが、そこには「アジア」(主に中国)という方法的な概念が、観念の領域に止まるまま他者としてのみ存在していたのであり、それゆえに、七〇年代以後、「政治」を実現させる「理想」のあえない崩壊においても、竹内は自己否定と自己生産という「理想」を唱えつづけることができた。
しかしながら、かような弁証法は、ある意味「自己欺瞞」でもあって、たとえば戦前の植民地朝鮮や戦後の在日朝鮮人たちのように、「自己否定」が日常化していた人びとに対しては、竹内は観念的な態度を見せていた。西欧近代を超克するための、「アジアの近代」を主張し、真の近代的革命を唱えた竹内であるが、このようにかれの弁証法的な論理には他者に対する矛盾も抱え込まれていたといえる。

文責:沈熙燦
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6月6日例会討論要旨

5月9日の日本思想史研究会では竹内好の日本人の中国観」(『展望』45号(1949年9月)初出、原題は「伝統と革命――日本人の中国観」)を扱った。この論説は、張群(1888~1990)の来日時のメッセージに対する竹内の答えとなっている。発表者(坂本)は、張群の日本へのメッセージから、それを報道する日本の言論界や日本人の中国観に対する竹内の批判を、テキストに則してまとめた。とくに竹内は、張群のいう「思想革命と心理建設」に重点をおいてみないかぎり、中国人の日本に対するメッセージの所在が見逃されると指摘した。しかし、言論界ではその点を無視し、中国革命を国民党と中共の対立の面ばかりでみていると、イデオロギイ的な対立をそのまま国民感情の対立と思い込んでいると、竹内は批判する。また、かれはこのようなイデオロギイだけを問題にし、それを超越的な価値の尺度にしてしまうやり方を日本的な偏見と規定する。
 考察として報告者は、張群が「日本国民」へ伝えたかったことが何であったのかという問題に重点をおき、当記事が掲載された9月12日付の『朝日新聞』朝刊から、張群のメッセージや行動記録をまとめた。これに対し、報告者の分析自体が、本論説における竹内の批判の本拠であるという指摘があった。

文責:許智香
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7月11日例会につきまして

来週の例会について、お知らせします。


報告:竹内好「方法としてのアジア」(初出は武田清子編『思想史の方法と対象』創文社、1961年、後に『日本とアジア』、『竹内好セレクションⅡ』所収』)

報告者:松川


よろしくお願いします。
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2013年7月4日例会につきまして

今週の例会についてご連絡します。


報告:竹内好「戦争責任について」(竹内好『日本とアジア』ちくま学芸文庫、一九九三、ページ229-237)

報告者:肖月

報告:「政治の転形/転形の政治ーー「転形期」の人間」(仮)(竹内好『転形期』創樹社、一九七四年)

報告者:沈熙燦


よろしくお願い致します。
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2013年6月27日例会富山報告要旨

本報告では、竹内好をその時代に位置づけることを目的とし、時評やこれに類する文章を中心として1950年代の再構成を試みた。この時期は、近年研究の蓄積も進みつつある戦後民主主義の最盛期であり、「進歩的知識人」としての竹内を検討する上で欠かせないところであるといえよう。彼の活動を時期的に区切って分析した場合、1950~53年の第一期、53~57年の第二期、57~59年の第三期、59~60年の第四期に分けることができる。
第一期では、戦争と革命が不可避と感じられる情勢の中で、共産党50年問題、再軍備、講和条約などの政治問題を通じて、否定すべき現実と選ぶべき理想との対比から、ドレイ根性、官僚制、インテリへの批判を行った。第二期では、独立および55年体制の成立と政治的危機の深化の中で、よりアクチュアルな実践とそのための選択を強い言葉で提起していった。しかし、55~56年は自身の病気や高度成長に伴う表面上の政治対立が見えにくくなり、時評活動はやや後退した時期でもある。第三期では、日本文化論や第修社会論といった新たな思想状況が生じたのにたいし、高度成長の進展に伴う社会変動を捉え、沖縄や部落といった社会問題への新たな視座へと展開していった。第四期では、安保改定と運動の昂揚に直面する中で、自身のナショナリズムが呼び起こされながら、知識人、教師、大衆に寄り添って、現代日本の矛盾とその解決への提起へと向かった。安保闘争の終結後、竹内は研究活動に専念するようになるが、安保の経験は1961年の三つの代表的論文へと結実し、その後の研究の基礎となったと評価できるのではないか。

文責:富山仁貴
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