日本思想史研究会(京都)のブログ

本研究会は立命館大学を拠点に、歴史学・思想史の問題について時代・地域に捉われることなく、深く考えていく場として設立されました。2014年度後期例会は、個人研究テーマ報告です。

ブログの記事を整理しました

先ほど、ブログの記事を整理しました。

今後とも、よろしくお願い致します。
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【巻頭言】 辻本雅史「学問観をめぐる羅山と藤樹」

寛永六年、林羅山は、僧の極位たる法印に叙せられた。その直後、彼は、儒者でありながら僧形・僧位にあることを自ら弁解する一文を草した(『羅山先生詩集』巻三十八)。これに対して二十四歳の青年中江藤樹は、「林氏剃髪受位弁」を著わして、羅山の欺瞞性を激しく糾弾した。非儒学的世界に身を置き、常に妥協を強いられた羅山の苦しい自己弁護に比し、儒学の理念に立脚した藤樹の筆鋒は鋭く、かつ明快であった。文章自体の説得力と後世の評価は、“御用学者”羅山よりも、藤樹の方に断然分がある。

「倭国にて儒者と称する者は、徒だ聖人の書を読むを知るのみ」(「安昌弑玄同論」)とみていた藤樹にとって、「記性頴敏、博物洽聞」の羅山はまさにその権化に違いなかった。後に藤樹は、その著『翁問答』において、儒者論を論じた。それによれば、四書五経、諸子百家の書をそらんじて「口耳をかざり利禄のもとめとのみ」する儒者は、「俗儒」であり、その学は「にせの学問」であるという。これに対して、「儒道をおこなふ人は、天子・諸侯・卿大夫・士・庶人なり。此五等の人のよく至徳要道を保合するを真儒と云なり。しかるゆへに、天子・諸侯・卿大夫・士・庶任のしょさ(所作)が、すなわち真儒のすぎわひにて候。五等の所作のほかのすぎわひは、天命本然の生理にあらず」というのが、藤樹の結論である。「がくもんは人間第一の急務にして、なさではかなはぬこと」ともいうように、儒学は、人たるもの天子以下庶民まですべてがひとしく学ぶべきもので、それは人として生きる根拠となるべき規範である。逆にいえば、「身のすぎわひ」のために学問するいわば職業儒者や専門学者の存在の正当性は認めていないわけである。

かく、自己の生き方の原理として儒学を主体的にえらびとるというのが、藤樹の学問に対する姿勢であった。熊沢蕃山の姿勢も、師藤樹とほぼ同じい。この意味では、山崎闇斎や山鹿素行さらには石田梅岩など、学派の違いをこえて、これと共通の学問観を指摘できる思想家は、必ずしも少なくはない。

これに対して、羅山は、まぎれもなく学によって「利禄をえた」専門学者であった。むしろ当時の儒者の多くがそうであった。蕃山は、「学問を教えて産業とする」彼らを、「道者」と明確に区別して「史儒」といい、さらには「役者」「芸者」と称した(『集義和書』)。ネガティブなひびきをもつこれらの言葉が示すように、近世前期において、知識の専門家という意味での学者は、それ自体必ずしも市民権をえていたとはいえないようである。

ところが、享保期、荻生徂徠は、『学則』末尾において、「学んで寧ろ諸子百家曲芸の士と為るも、道学先生と為ることを願はず」と言いきった。あまりに有名なこの言葉は、朱子学的リゴリズムへの訣別宣言として、当時の学者たちに強烈なインパクトを与えた。徂徠は、道の認識者と道の実践者を分離し、儒者(学者)の役割を明確に前者に限定した。しかも学問を、実践(「治国安民」)のための「述」(技術・方法)であるとし、学問には、実践的現実からの一定の自立性を高い専門性とが必要であると論じた。この学問観が近代的であるか否かは、ここでは論じない。しかし徂徠のこの学問観が、以後儒学の枠をつきやぶって多彩かつ豊かに展開してゆく諸学問(経世学・医学・蘭学・本草学等々)が成立する前提をなしたことは、疑いない。

けだし徂徠の学問観は、羅山が若干の後めたさを余儀なくされつつも依って立っていたその職業的儒者の立場を、積極的かつ学問的に正当化したものではなかったか。ちなみに、徂徠自身も、闇斎学派の対極としての羅山の学風や学制に大いに好意的であった(『学寮了簡書』)。実際の歴史では、以後、これに対する朱子学の側からの反撃も強く、寛政異学の禁も、その延長線上に準備されてゆき、やがて両者が重層的に共存しながらも近代につながっていったとみられる。

右の二つの学問観は、結局のところ、客観的真理を追求する意味において、実践的現実に対する学問の相対的自立性(学問的世界における一定の自己完結性、通常それは高度の専門性を随伴する)と、学問的主体の生き方との関わりという問題を内包しているやに思われる。

今や、学問は、高度に専門分化し、必然的に職業化という形をとらざるをえない。それは、学問の発達の所産に違いあるまい。その結果、今日学問に関わる我々は、好むと好まざるとにかかわらず、徂徠流の学問観の世界に身をおいている。しかし思うに、かかる時代であればこそ、かえって藤樹流の問題提起を学問の原点として新鮮さをもって、一人一人が思いをいたすことが必要ではあるまいか。藤樹はいう、「口耳をかざり利禄のもとめとのみ」する学問は、「にせ」であり、「正真のがくもん」とは、人としての生き方の根拠となるものである、と。(光華女子大学講師)

(『日本思想史研究会会報』第3号掲載)
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【巻頭言】 山尾幸久「古事記についての一問題」

寛永六年、林羅山は、僧の極位たる法印に叙せられた。その直後、彼は、儒者でありな一九三七年、文部省思想局が編集した『国体の本義』は、「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である」としている。「万世一系」の理念は、必ずしも近代的歴史意識による古代の解釈とはいえない。中世や近世の著述にも、すでにそれが認められる。しかし、万世一系の天皇系譜が初めてまとめられた七世紀末葉においては、正当性の根拠としては、それは強くは意識されていなかったとしてよい。

天武五(六七六)年頃のものとはほぼ立証可能な孝徳紀の詔に、次のごとき意味を述べた部分がある。「今後天皇の地位は男系の血統によって継承されていくのであるから、時の天皇と天皇の祖先の名とは、後世においても忘れられることがない。それは自明の理であって、歴代天皇の名や祖皇の子孫の名は、未来永劫にのこっていくのである」(「王者之児、相続御寓、信知、時帝与祖皇名、不可見忘於世。・・・王者之号、将随日月遠流。祖子之名、可共天地長往」)。これは、この頃の継嗣の原則として採用された、中国式の男系血統主義の観点に立って、述べられている。終始男系で天皇位が継承されるならば、同宗である後継者たちの祖先祭祀は、永遠に始祖以来歴代天皇のすべてを対象とする。しかし、異宗の男子の入婿によって天皇位が継承された場合は、婿となった男子の男系祖先のほうが後継者たちの祭祀の対象となって、先代までの天皇は異宗の人の祭祀を享受することがない。天皇による祭祀の対象とならない過去の天皇は、遂に存在すら忘れてしまう。

具体的にいえば、天智や天武は、男系をたどって遡っていくと、舒明→彦人王→敏達→欽明→継体に至る。その先は、ウシ王→ヲヒ王→オホホド王へと遡る。天武朝の真人のカバネは、これらの人物の末裔氏族、つまりは天皇一族の親戚筋に与えられた。しかし継体は入婿した人であるから、継体よりも前の天皇は、今後の天皇、すなわち天智や天武の子孫は、祭祀することがかなわない。そこで、天皇系譜の上に、応神という一代を設けねばならなくなる。そのことによって、応神の男系の子孫ということになった仁徳~武烈は、 同じ応神→ワカヌケフタマタ王→オホホド王の男系子孫とされた今後の歴代の天皇の、中国式祖先祭祀の対象となる。

万世一系の系譜は、律令国家の君主継承原則にとっての不可欠なのである。それが天智・天武朝に初めてまとめられたことは、他にもいくつか徴証がある。前律令制期の君主にとって、始祖以来一貫して男系で継承されてきたということは、正当性根拠としては、発想しえなかったであったろう。それならば、もっと古い時代の王位就任者は、何をもって正当性の根拠としたのであろうか。先の『国体の本義』に「皇祖の神勅」とある。右の規定は、万世一系の天皇が、天皇の歴史の始まり(天孫の降臨という一回性をもつ歴史)に実在したところの神勅を奉じて、永遠に統治する、と読める。しかし、これら、神勅が初めてまとめられたと考えられる七世紀末葉頃の観念からは、だいぶん離れていると思う。

よく知られているように、この神勅は、古事記では、アマテラスとタカギノ神とが、ホノニニギに、「此の豊葦原の水穂の国は、汝知らさむ国、と言依さし賜ふ。故、命の随に天降るべし」と詔したとされている。日本書紀では、第一の一書に、アマテラスがホノニニギに、「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治せ。行矣。宝祚の隆之まさむこと、当に天壌とともに窮り無けむ」と勅したとされている。

この神勅は、古事記では、その後の天皇は言及しないが(それこそが後述する古事記の縁起的性質であるが)、書紀では、神武天皇が、「昔、我が天つ神高皇産霊尊・大日靈命、此の豊葦原瑞穂国を挙げて、我が天祖彦火瓊瓊杵尊に授けたまへり」と語ったとある。また孝徳紀の詔勅では、三度これに近いことがいわれている。一は東国国司らへの詔であって、「天つ神の奉け寄せたまひし隋に、方今始めて万国を修めむとす」である。二は白雉改元の詔に、「四方の諸の国郡等、天の委ね付くるに由りての故に、朕、総ね臨みて御寓す」とあるものである。三は、かつて神勅の実在を証明するものとされた、品部廃止の詔のそれである。「惟れ神、『我が子治らさむ』と故寄させき。是を以て、天地の初めとともに、君臨す国なり。・・・今は、天に在す神の随に、治め平くべき運に属りて、・・・」とある。

孝徳紀の三例は、天皇の君臨統治の正当性根拠自らに対する天の神の直接の委託にあることを語っている。これは、文武天皇以後の天皇の即位の宣命にしばしば見られるところである。天の神の意思は、天皇史の初源に一度だけ示されて、その後はその子孫が連綿と継承しているというのでは決してない。歴代の天皇は、繰返し繰返し天の神から直接に統治を委託されているというのである。これはヒツギの根本観念であって、天皇としての霊的威力は、一部の人が誤解しているように先代から継承するものではなく、その都度直接に天の至高神から継承するのである。大嘗祭の意義はそこにあって、歴代天皇は即位の都度ホノニニギとして繰返し降臨してきたのである。神勅を奉じ相承けて君臨してきた天皇の歴史の長さ、有徳の訓府の統治の積み重ね、要するに今日いうところの歴史は、正当性根拠とはなっていない。

孝徳紀に見えるこのような観念が、実は孝徳朝のものではなく、天皇という君主形態が成立する天武朝頃のものであることは、ほぼ証明することができるが、今は立入らないことにする。ここでもう少し言及したいのは、右の、繰返し繰返し同一のホノニニギが永遠に再生するという観念である。常に初源が現実に存在するという観念は、古代の日本では、農耕儀礼の根本にある穀霊児再誕の信仰を例証とするまでもなく、普遍的であったはずである。古事記の歴史意識は、連続性や継起性といった歴史的時間の観念とは異質のものではないか。

古事記が現在見る形となったのは、和銅四(七一一)年九月から翌年一月にかけてである。その性質を規定した、成立史上最も重要な時代はといえば、天武天皇の一〇(六八一)年から一四(六八五)年までである。最終的な完成までにどのような変化があったかの追求も大事な課題であるが、古事記が天武朝、特にその後期の所産であるという事実は、それとは並列できない基本的なことである。古事記の本質をどのように見るかは、いくつかの立場がありうるが、ほぼ疑いのない一つは、それが、全体として天皇縁起の性質をもっているということであろう。古事記は、あたかもその時生み出しつつあった天皇という君主形態、およびその正当性根拠について、縁起の論理で説明し意味付けているからである。

天皇という君主のありかたは、“原古事記”が成立した時期に確立したのである。今日いう意味での歴史を全くもっていない。これから始まる新しい現実が、未来永劫に続かねばならない正当性根拠の呈示という性質を、古事記はもっている。その論理が、天皇の地位は神の意思の現実態だとするものである。

現実に存在する事象・状態・関係などを、その初源において説明し了解し受容する形式を、起源譚とか由来譚、広く縁起といってよければ、古事記は、きわめて多くの縁起を語っている。万世一系に繰返されてきて現にそうである天皇としての霊的威力の継承、一族の始祖以来繰返されてきて現にそうである特定職能による天皇への奉仕、最初は神々が行いそれ以来繰返されてきて現に行われている休廷の祭祀・神事、そのほか、休廷で現実に行われている歌謡にせよ、朝鮮の新羅王に対する宗主国的位置付けにせよ、現に王族の宮に所属しているトモのことにせよ、古事記のかなりの部分は、何事かの由来譚である。それらが全体として、天皇縁起の諸部分を構成しているといってよいであろう。

今まさに新たに生み出そうとしている律令国家の君主の、正当性根拠を、なぜ古事記は、初源における神勅の存在という形式で発想したのか。問題はこのように立てなければならない。日本の古代王権が、きわめて古い時代から血統による世襲であったとする説を前提として、それなのになぜ神勅を発想したのか、と問題を立てると、追求の方向を誤るおそれがある。それはともかく、古事記は、その他のことにしても、なぜ、起源にばかり関心が偏っているのであろうか。現実と起源との間に横たわる不可逆の過去、その間の一回性をもつ事実、個性ある歴史的変化といったことには、極端に関心が薄い。初源は繰り返されて現実に存在するという意識が目立っている。これは古事記の歴史認識の一特質であろう。

そもそも古代の日本に、中国語で「史書」「史籍」などと用いられる場合の「史」、あるいはまた「ヒストリア」「ゲシヒテ」などに当る言葉が見当らない。朝廷の記録係・文書係を意味するフミヒト(フビト)の語に、それと同じ意味をもつ中国語の「史」をあてているが、フミイタ(札・籍)・フミテ(筆)などとも使われるフミという言葉は、中国語「文」の字音FUN←→FUM開音節化したものと考えられており、元来は借用語である。

古代の日本で歴史に当る言葉を求めるならば、「ことのもと」しかないであろう。これに「縁」「本縁」の字をあてている。「縁」の古訓に「よし(由)」があるが、同じ使いかたである。古事記は分注で一度「言の本」とするだけで、本文には全くない。しかしこれを内容に即して見ると、全篇「ことのもと」が横溢している。日本書紀にこれが多用されているのはいうまでもなく、風土記・古語拾遺・姓氏録にも、「ことのもと」の意味での「縁」の用例が見られる。「ことのもと」とは事(言)の本であり、起源・由来である。「ことのもと」は、「史」「ヒストリア」「ゲシヒテ」とは異質である。後者の根本は記録であろう。記録しておかなければ、現在は刻々過去に繰り込まれ、将来の人々は再びこれをたぐり寄せることができない。このような過去の見かたは、未来を人間の意思的関与の対象と見ることに照応しているであろう。前者は、不可逆の過去、継起的な時間、といった観念がないところに成立している。(立命館大学文学部教授)

(『日本思想史研究会会報』第4号掲載)
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【巻頭言】 三浦圭一「情報化時代の思想」

日本中世の社会経済史にかかわってきた私には、思想史について発言する知識・能力はまったくない。にもかかわらず、情報化社会といわれるものの真っただ中にいて、歴史教育・歴史学研究に携わっている一人として、歴史学の方法と叙述を通じて思想を学ぶことのできる“歴史学の古典”はいまどのような趨勢にあるのだろうかという感慨がないわけではない。その辺のことについて述べたいと思う。

一九六五年九月に黒田俊雄氏の中央公論社『日本の歴史』(第八巻・蒙古襲来)が刊行されてから二か月ほど経った後、大阪にある某大銀行調査部所属の行員から黒田氏の著書をテキストとした学習会を開いてきたが、そのまとめをしたいので講師として来て欲しいと以来を受けた。正直いって私は講師として助言することよりも、いかに私的な学習会とはいえ銀行調査部の行員が日本歴史に関する持続的な学習会になぜ取り組んでいるのかに興味を覚えて参加した。私に電話してきた行員は、大学で日本史を専攻した人で、調査部では全国から集められた新聞のなかから文化財に関する生地を切り抜き整理することが仕事であると話していた。一見、銀行と文化財とは無関係のようにみえるが、銀行の市場調査の一環として、文化財発掘・保存などの問題が収集すべき情報の一つであることに間違いはなかった。当時、この種の情報収集・情報蓄積をしている大学や研究所がどれほどあるだろうかと考えて、背筋が寒くなるのを覚えたものである。

大学で日本歴史について教え、また研究するために、時々の日本人の歴史意識や日本史研究の諸成果を、情報として収集し、分析し、それを再構成するという“回路”が不可欠であることはいうまでもない。そのために、大学や研究所、学界や図書館などの機関・組織を通じて、また個々の研究者が努力を傾けているのは周知のところである。

だが、銀行調査部の文化財関係の情報回路が、銀行活動の生命である“妙味”と呼ばれる営利を確実にする先述・戦略に、どう繋がれるのかということが重要であると同様に、歴史意識・歴史学研究の情報回路の構造そのものを分析し追究することが大切であろう。私たちが歴史学の古典と呼び、史学史的な考察の対象としてきたような業績は、銀行の“妙味”とは異なるけれども、国家や社会に対して主体的にかかわって、思想という“妙味”を際立たせ、読者の多くを真理探究に向けて駆り立てたことは否定できまい。そのような意味で、歴史学の古典とは、やはり“正義価値”の主張をもつものであったということができよう。

ひるがえって情報化社会のなかでの身近かな歴史教育・歴史学研究の動向をみると、事態は深刻であるようにみえる。歴史を学ぶ学生の多くは、歴史学の古典から、その著者の 国家・社会との一定の距離をおいた主体的なかかわりの姿勢、研究を発展させた創造的な方法論の提示、論述上に示される構成・叙述の苦闘を学ぶのではなく、せいぜいそこから専門的知識の諸断片を収集することや、ひどい場合には専門書としての一冊を読んだということの安堵感にひたるだけのように思える場合もある。学問とは情報収集の次元の問題にすぎないという認識であろうか。的確に、しかも多量に“情報”を提供できない教員は欠陥教員であるとし、その“情報”が、人間の尊厳さはもちろん人格とも結びつかないし、 国家・社会を客観化する“思想”にもかかわりをもたない程度のもので事足りる。それ以上の“情報”は窮屈である。“情報”はより優位でより安定した就職を掌中にする手段にすぎないと考えるからである。そこにはどのような国家・社会のなかでも生きのびることができるという見事な「高度な専門的技能・知識をそなえた経済人」の誕生がある。ここに貫徹しているのは、的確な“情報”の収集ができ、できるだけ多くの“情報”を整理して放出できる個人であろうとすることであり、まさにコンピューター的人間への接近であ
る。そのなかで偏差値に絶大な信頼をおく学力観への拝跪がある。

このような事態は歴史教育・歴史学研究そして歴史書出版、さらに歴史をめぐるブームのなかにまで、色濃く反映しているとみなければならない。歴史をめぐる“情報化社会”の回路は、現在は残念ながら、歴史学の古典を生み、歴史学を支える思想を成立させるような構造のもとには繋がれていないのではなかろうか。情報工学の分野では、「コンピューターは人間を超えられるか」が問題になっていて、情報の技術はまだ人間の秩序の枠内にあるように思える。しかし歴史学の分野では、「人間はコンピューターを超えられるか」という設問を投げかけるべき局面に来ているように思える。

人権や人間の尊厳さまでもたんなる“情報”にしてしまう週刊写真誌の賑わいぶりと裏腹に、一国の政治を客観的にみようとすることを根底から否定することにつながるおそれのある国家秘密保護に関する法制定の動きがあり、国鉄民営化の具体的な動きのなかで、職員の雇用安定と引き換えに正々堂々と働く人びとの憲法で保障された基本的権利の剥奪がされていること、学校教育を従属させる受験産業と偏差値信仰の癒着など、二十世紀半 ばまでの日本で、社会進歩とともに歩み、歴史のなかで試練に堪えてきた思想は、二十世紀の終末期にあたって、情報化社会の真っただ中で、終焉を迎えようとしているのであろうか。そして歴史学のなかで古典を生むような時代は永遠に去ろうとしているのであろうか。(立命館大学文学部教授)

(『日本思想史研究会会報』第6号掲載)
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デザインを刷新しました

ブログのデザインにつきまして、見やすさを考慮した結果、デザインをこの度変更しました。

どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
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旧サイトに掲載されていた会報の論文につきまして

この度、本研究会の旧サイトに掲載されていた会報の論文につきましては、新たなカテゴリーを設けて、そちらに転載する作業を進めています。

いましばらくお待ち下さい。

また、会報バックナンバーの記事につきましても、見やすいように、改めて整理をするつもりです。

今後ともよろしくお願い致します。
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【巻頭言】 倉地克直「東照宮祭礼と民衆」

東照大権現は、近世社会において、どのように存在していたのであろうか。それは、東国の武家の守護神か、もしくは、将軍の権威を荘厳せしめるものにすぎなかっただろうか。また、近世社会における神仏をめぐる意識動向の中に、東照大権現はどのように位置付くのだろうか。そんな関心から、「『三河物語』における二つの[起請破り]をめぐる断章」という雑文を草したことがある(1)。その末尾で、東照大権現を八幡大菩薩のアナロジーとして描いた『三河物語』の一節を引き、「東照大権現を、徳川家中の守護神にとどまらない現世の社会秩序全体の守護神として表現しようとしている」と指摘した。それ以前から、近世民衆にとって東照大権現とは何であったかが気になっていたからであり、今もそうである。ところで、近世を通じて全国に約一五〇の東照宮が勧請されたという。それらは民衆にとってどのような存在であったのだろうか。試みに岡山藩の事例を紹介しながら、少し考えてみよう。

岡山に東照大権現が勧請されたのは、正保二年(一六四五)二月のことである。この時期、岡山藩主池田光政は、家臣団の強化と統制を中心に、藩政の確立に取組んでいた。光政は、「江戸ノ被思召処、末々国々まてあんおんニゆるやかに在之様ニと御心根ニ候、就其、当国なとハ猶以御心ニ叶候ハて不叶儀ニ候」(「池田光政日記」正保三・六・十六)とか、「国能治、国さかへ候へハ我等へノ方向、我等ハ上様へ御方向と存候」(同前、慶安二・三・朔)とか説諭しており、常に家臣に対して将軍への奉公を強調していた。こうした立場から、藩政の精神的バックボーンの一つとして東照宮が勧請されたわけである。もちろん、光政自身が将軍家光と極めて親密な関係にあり、「新太郎〔光政〕ハ余人とちかい候条、権現様しんかうニ存候ハて不叶儀と被思召候」(同前、正保二・三・六)と言われているのではあるが、東照大権現勧請の目的は、光政個人による崇敬ではなく、あくまでも治国の主体としての家臣団全体による崇敬にあったと考える。

遷宮は正保二年二月十六日の依るに行われ、「御家中侍中不残罷出白洲ニ跪祇候仕、侍中之後ニ貴賤群集」(「御祭礼聞伝記」)という盛況であり、翌十七日から三日間は法会が執行され、これも「貴賤男女参詣夥敷群集有之」(同前)であったと伝えられている(2)。東照宮祭礼は、翌正保三年(一六四六)にはじまり、毎年、四月十七日か九月十七日か(藩主の在城にあわせて隔年交代)に執行された。

当初、祭礼の一つの中心は、「御家中御老中ヨリ馬廻リ之侍中迄騎馬所持之面々」(同前)による馬揃であった。これは、寛文五年(一六六五)まで続けられ、寛文初年には五百騎程の行列であったという。あわせて、明暦二年(一六五六)から寛文五年までは流鏑馬が行われている。更に、寛文六年(一六六六)から九年(一六六九)までは、甲冑騎馬による武者行列が行われている。まさしく東照宮祭礼は、家臣たちに治国の主体としての自覚を促すとともに、家中の威勢を良民に固辞する一大イベントであったのである。なお、寛文六年は、寺社淘汰・キリシタン神職請を中心とした強力な教化政策が開始された年であり、ことさら武威を強調する武者行列への転換も、それとの関連が深いと思われる。

東照宮祭礼でもう一つ注目しておきたいのは、当初から城下町住民が動員されていることである。その一つは、御神幸供奉の練物が岡山町中五町から出されていること。ただし、これは承応二年(一六五三)まで続けられ、承応三年(一六五四)の大洪水によって以後中止となっている。もう一つは、城下武家方とともに、町方十二町が東照宮御氏子とされ、祭礼前日に初尾として鳥目九貫文の奉納を義務付けられたことである。

ところで、この点で興味深いのは、鳥取藩の事例である。『鳥取県史』によれば、鳥取城下に東照宮が勧請されたのは慶安二年(一六四九)、祭礼は慶安五年(一六五二)から始められているという。この祭礼には、城下の町方から六つの練物行列が出されているが、これは一種の「役」として課せられたものであるという。そして、城下町住民による練物は、前代からの民間伝承芸能に深く結び付いたものであり、祭礼の開始とともに盆踊りに対する規制が行われたことを考え合わせると、東照宮祭礼への民衆の動員は、遊芸にかける民衆のエネルギーを権力の祭礼に流し込もうとしたものであったと推定されている(3)。

岡山藩でも、事態は同様であったと考えられる。城下町住民の東照宮祭礼への動員は、彼らに現在の秩序の正統性を意識させ、社会的統合をすすめるものであった(4)。と同時に、それが上から強制されたものであった以上、他方で民間の遊芸に対する統制を伴わざるをえなかったことが注目されるべきである。岡山城下での盆踊りに対する規制がいつ始められたかは不明であるが、寛文十年(一六七〇)の町触に、「如例年ノ盆之おとり御法度候まゝ、おとらせ申ましく候」とあり、「幼少之子共銘々ノ裏屋敷ニて、五人、拾人おとり申候事前々之ことく不苦候」と許されながら、「成人之ものゝ集り、人よせ仕候而おとり申ものハ堅無用ニ候」、「町筋ニておとり申候事まへまへ之ことく御法度候」と規制されている(国富家文書「御触留」(5))。しかも、城下での遊芸に対する規制は、盆踊だけでなく、五月節句や春秋の氏宮祭礼などにまで対象を広げ、延々と幕末まで続けられている(6)。何か事があれば、「成人」が集まり、「町筋」に溢れだす遊芸のエネルギーが、脈々と流れているのである。

元禄十二年(一六九九)から、東照宮祭礼でも町方練物が復活する。承応三年(一六五四)の練物中止は、大洪水を直接の原因とするものであったが、その後光政は教化主義的色彩の極めて強い藩政改革を展開しており、祭礼の遊芸化には否定的になっていたと思われる。これに対して、光政を継いだ綱政は、芸能への関心も強く、藩政も元禄期には一応の「安定期」を迎えていた(7)。加えて、当時の元禄文化の風潮は、抑えられていた民衆の遊芸へのエネルギーを刺激したと思われる。そして何よりも、祭礼に期待された社会的統合機能からすれば、町方練物の復活は必然的であったと言えるだろう。

十八世紀前半の祭礼でも町方練物の特徴は、その内容の〈流動性〉である。元禄十二年の練物は、「カサボコ 大母衣 代神楽 小母衣 武者 順礼踊 石引」(「聞伝記」)であったが、この出し物も五年単位ぐらいで変化している。また、一年切りの演目が無造作に取り入れられるようになり、元禄十四年(一七〇一)「舞台ニ車ヲ仕掛上ニテ小原町説経トモ狂言仕用意」、元禄十五年(一七〇二)「大坂三太郎ト申十一二歳之小坊主於御旅所鎗踊ナト仕」、正徳元年(一七一一)「大黒町之者浄瑠璃小歌ヲ諷」、正徳四年(一七一四)「馬子ブシノ小歌ヲ諷」(以上同前)などの事例が知られる。このような〈流動性〉は、民間での遊芸を統制し、城下町住民の遊芸にかけるエネルギーを東照宮祭礼に流し込み、それを社会的統合の場とするためには、どうしても必要なことであった。

十八世紀前半のもう一つの特徴は、惣町による祭礼参加がすすめられたことである。例えば、元文四年(一七三九)からはじまる「庭訓売物」には、城下の全町である六十二町から物売りが出ており、祭礼費用が惣町による町役負担となるのも、この頃からのことではないかと思われる。

こうして、十八世紀前半に、東照宮祭礼は城下町住民のものとなった。東照大権現は、城下町住民にとっても親しい存在となった。しかし、このことが逆に、十七世紀に強くもっていた支配者の神としての側面を希薄にさせ、神格としてのある種の〈抽象化〉-他の神との〈平準化〉をもたらすことになったのではないだろうか。祭礼のもつ社会的統合機能は、実は〈両刃の剣〉であったと言うべきであろう。


(1)岸俊男教授退官記念会編『日本政治社会史研究』下(一九八五年・塙書房)所収。

(2)岡山の東照宮祭礼についての記述は、『備陽記』追加・巻三十二に所収された「御祭礼聞伝記」による。

(3)鳥取藩の東照宮祭礼については、『鳥取県史』5・近世 文化産業(一九八二年)第二章第一節三、による。

(4)こうした点では、久留島浩「近世における祭りの『周辺』」(『歴史評論』四三九・一九八六年)が興味深い。ただし、そこでの捉え方はいささか一面的であり、氏もあげられた課題の一部を敷衍してみようというのが、本稿の意図でもあった。

(5)『岡山県史』21・備前家わけ史料(一九八六年)所収。

(6)国富家文書「御触留・失物留」(同前)

(7)『岡山県史』7・近世2(一九八五年)第一章第一節。

(『日本思想史研究会会報』第7号掲載)
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【巻頭言】 中村春作「「知識人」論の射程」

一九八九年前後に、k.v.ウォルフレンの発言をきっかけとしてなされた一連の論争がある。ウォルフレンとは、いうまでもなくベストセラーとなった「日本人論」の一種『日本権力構造の謎』の著者であるが、そのウォルフレンの「なぜ日本の知識人はひたすら権力に追従するのか(『中央公論』一九八九年一月)と題する論文に端を発し、そこで批判された等の知識人たちが反論を加える形で推移したものである。論争そのものは例によって不完全燃焼のままに終わったのだが、ただ論争の中から見えてきた両者の議論のズレが、論争がなぜ非生産的であったのかということとも関連して、私には興味深かったのである。それは端的に言えば、「知識人」という社会内存在そのものに関する、両者の理解の完全なすれ違いについての関心であった。「日本では知識人がいちばん必要とされるときに、知識人らしく振る舞う知識人がまことに少ないようである」とし、「権力行使のあり方こそ、日常の社会生活面で我々に影響を与える、他のすべての事柄を決定づける」ことから考えて、日本の知識人はその機能を果たしていないと断じたウォルフレンに対し、体制擁護的と批判された「知識人」の一人である村上泰亮は、「(現代においては)知識人固有の役割はもはやなく、一元的な科学的知識を弘布すべき啓蒙主義的知識人はその居場所を失っている。W(ウォルフレン)氏の念頭にあるような知識人は絶滅間近の珍種になろうとしている」のだ(同誌、同年三月「移行期における知識人の役割」)として、批判自体が不適当であるとした。その後も同誌を主たる舞台として応答が交わされたのだが、そこに露呈したのは、「知的な誠実さ(インテグリティ)を何よりも尊しとする」「独立不羈の思索家」「独立自尊の知識人」という、「知識人」観念の普遍性を無前提に押し立てるウォルフレンと、それを歴史的、相対的にしか規定し得ないもの、いまも変化しつつあるものとしてとらえ、そのなかで自らの役割を極力小さく限定しようとする日本側の論者たちとの間の、認識のズレであった。そして論争の勝ち負けよりもむしろ、考えされられたのは、結局、「知識人」とは何なのか、我々にとって「知識人」とはいかなる社会内存在だったのかという問題であり、また、無前提のごとくいわれる「知識人」とは何においてその有意味性が疑われないものであるのか、ということであった。同時期に「論争」を外側から批評したイアン・ブルマの言うような、「知識人とは西欧の伝統において、また多くのその他の国々でも、代弁者ではなく、真理を追求する独立した精神の持主なるがゆえに知識人と呼ばれているのだ」(同誌、同年八月)とする定義そのものの「自明」性の由来を、そうした人格を社会内に有意味なものとする社会的機制の成立を、あらためて「近代」の問い直しと共に考える必要を痛感したのである。

ところでそもそも「知識人」とは今日、どのように定義されているのか。それはたとえば、リオタールによれば「人間、人類、国民、人民、プロレタリアート、生きとし生けるもの=被造物、ないしはこれに類する何らかの実体的存在の立場に身を置いたうえで、すなわち、ある普遍的な価値をそなえた一個の主体の立場に自己を同一化[一体化]したうえで、その視点から、ある状況ないし状態を記述し、分析して、その主体が自己を実現するために、少なくともその自己実現の前進のために、何がなされなければならないか、を指示するような精神の持ち主」(『知識人の終焉』)のこととされ、サイードでは「なんらかの立場をはっきりと代表=表象(リプリゼント)する人間、また、あらゆる障害をものともせず、聴衆に対して明確な言語表象をかたちづくる人間たるべき」もの、「表象=代弁する技能を使命としておびた個人」(『知識人とは何か』)というもの、他方、いささか愚直に「どのような人々を知識人と呼ぶかについて、いまや大きな混乱が生じて」おり「知的活動と知識人を名乗る人々との間には、多くの場合ある種の乖離が見られる」と認めるダニエル・ベルの穏当な定義では「『意味』をつくり出す人々」(「転換期に立つ知識人」『知識社会の衝撃』)という最大公約数的な表現に示されるような社会的存在、とひとまずは定義されているようだ。もちろんリオタールもサイードも一定のイデオロギー的立場からの発言であることは当然のことであるが、これらいくつかの定義のなかから、「表象=代弁」し「意味をつくり出し」「自己実現」するような「個人」という、いわば近代社会における特権的存在が、共有のイメージとして浮かび上がってくるのである。しかし今日における問題は、くりかえし言えば、ウォルフレン論争の非生産性を顧みても、そもそもこうした自明的「知識人」なるものがいかにして成立したのか、そしてそれは、誰を、あるいは何を「表象=代弁」することにおいて有意味な存在たり得るのか、ということへの問い直しにあるように思われる。私にとっての関心事は、特にナショナリズムの形成、「国民国家」の想像=創造の過程で、こうした「知識人」がいかに創出され、社会内に意味を有していったのか、そしてそこには、それを支える、B.アンダーソンが定義したような、一般的で均質な「知」が、どのように「国民」の「知」として構成されていたのか、という点にある。それは当然十九世紀世界において新しく生命を与えられた「教養」という概念にも関わることである。現在、「知識人」の輪郭が不明瞭なものとなりその不在が論じられることと、大学の教養部がさしたる論議もないままに廃棄されようとしていることに端的に見いだせるように、「教養」概念が急速に社会的生命を失いつつあることとは、密接に関連していることなのだ。それは、そもそも「知識人」が「近代」に特有の存在として成立したものであり、リオタールがいみじくも定義したように「国民」と「同一化」し「国民」を内部から構成し「語る」ものとして、初めて特権的な存在たり得たものだったからである。ウォルフレンが常に立論の下敷きとする、「日本の代表的知識人」丸山真男の著述に対する近年の批判の焦点が、彼もまた「(日本)国民」という一定の「内部」を啓蒙的に内から構成し続けた人ではないかという点にあるのも、そうした「国民」を「語り」、「民族」を「表象」することを通じて成立した近代「知識人」、という根本的問題に関わっているからである。今も、民族問題の発生に「『表象の職業的専門家』の責任に負う点が少なくない」(山内昌之『民族の時代』)とされるのは、そもそも十九世紀世界において、「国民国家」や「国民」の創出と「知識人」の成立が同時的であったからなのだ。それゆえ、現在、「知識人」とは何かを問うことは、「国民国家」への問い直しや、「我々の」近代「知」への内省に密接に関わることなのである。



上記のような視野から、日本における「知識人」という社会内存在や、その自己認識の成立、そしてそれがどのようにして、一般的に共有される知的基盤のもとに形成されたかを考える際、明治初期「啓蒙知識人」成立の問題、そしてそこにおける儒教(儒学「知」)の変容という問題が重要な局面として考えられる。というのも、実質的に儒教的教養が広範に普及し、国民的な「知」の中身として血肉化(「国民的教養」の発生)したのは、江戸期よりもむしろ明治期になってからのことであり、そのことの重みを「啓蒙知識人」成立の前提条件として考える必要があると思うからである。ただ誤解を避けるために予め言っておけば、「明治人」には、江戸期からつながる漢学的素養があり、それが特有の評価すべき精神的骨格を形作っていたといったような、ある種のエートスの持続を、ここで言おうとしているのでは毛頭ない。西洋の学問・制度の流入のもとで、明治期儒教はまさしく「漢学」として全く新しい再生をなしたのであり、そこには江戸期儒教との大きな断絶がある。また明治前期において一種の「漢学断種」政策(緒方康「他者像の変容」『江戸の思想』四)が広範にとられたのも事実である。そうした断絶の存在を前提にした上で、たとえば明六社同人たちの如き、江戸と明治の二世界を同時に生きつつ、そこから「知識人」として自立を求めた試行のなかにどのような知的な変質が生じていたのか、その変質の場面を重層的な断面図で示すことで、日本における「知識人」発生の条件となったものの所在やその様態を、議論することができるのではないかと考えるのである。本稿の趣旨は、そうした問題の提示と、それに応じた方法的手続きを確認することにある。

ところで言うまでもないことだが、「知識人」という用語自体が、近代の生産物であり、江戸時代にはそれは存在しなかった。「教養」ということばも同様であり、近代においても大正期と戦後期において二度変質していると指摘されるように(筒井清忠『日本型「教養」の運命』)、歴史的概念として絶えず変質してきたのだが、広瀬淡窓などが「教養ノ術行」(『迂言』「学制」五)などというときの「教養」の語義が「教え育てる」こと、「教育」「訓育」であったように、江戸期にはそもそも今日の意味に相当する「教養」概念が存在しない。明治八年、小野梓の「教養ノ盛衰ハ文化ノ汚隆ニ係リ、国家至治ノ名、唯文化ニ待ツ有ルノミ。故ニ教養ノ事、国家政治ノ要タル也。」(「論通常之教養」『共存雑誌』一号)という発言も、名詞化され「国家」と連語される、それまでにない新たな視点や、(専門家のではなく)「(国民の)通常の教養」の必要性という新主張が生じているが、語義としては、やはり「教育」に近いものであり、明治期も半ばを過ぎて初めて今日使われる語義が登場するのである。それ故、これらの用語はここでも、常にカッコつきで用いなければならないのであるが、だからこそまさにそれは、語源の探索や語義の定義においてではなく、用語の社会内的布置を決定する知的編制が、十九世紀の言説空間のなかで、切断や変質を伴いながらどのように変容し、「国民国家」を構成する「知識人」・「教養」の成立に至ったのかという点において、詳細に検討されるべきなのである。大正・昭和期の精神史として、「知識人」概念を軸に論じた坂本多加雄は、近代日本における「知識人」「知識階級」という用語の発生を大正期に求めて、以下のように述べている(『知識人―大正・昭和精神史断章』)。

「知識・思想の生産流通に関わる人」は、既に述べたように、明治期にも、江戸期にも存在しなかった当時においては、そのような「知識」・「思想」の価値、さらに、それに関わる者の社会的存在意義が、いくつかの例は別としても、一般に後に見るほどに切実に意識され議論されることはなかった。「知識」・「思想」が有意義なものであるということは、自明の前提であった。しかるに、明治末から大正期を経て、「知識階級」、「知識人」という言葉が成立していくことと並行して、「知識階級」「知識人」の存在意義ということが、鋭く意識されるようになっていったのである。

「知識人」・「知識階級」という用語の発生と、そこにおいて生じた社会内的意味についての説明は明快で首肯できるものであるが、明治期、江戸期にも「知識・思想の生産流通に関わる人」がいたにも関わらず、「知識」・「思想」の価値が論じられなかったのは、「『知識』・『思想』が有意義なものであるということは、自明の前提であった」からであるかどうかは、再考の余地があるだろう。後にも例を出して述べるように、また多く指摘されているように、江戸期においては、そして明治初においても、ことがらは必ずしもそのようではなかったからである。ともあれ、「『知識人』という言葉は、他の様々な言葉や観念と様々な形で結び合うもの」であり、「『知識人』という言葉が不要になりつつあるとすれば、それは、まさしく、こうした様々な言葉や観念が織りなすなかで形成されてきた私たちの思考の歴史が大きな転機を迎えつつあることを暗示するであろう」とする同所の立論の前提を筆者も共有しつつ(その先の、「国民国家」論の方向に関しては、氏と考えを異にするが)、日本の十九世紀世界において、「知識」・「思想」の有用性がどのようにして新たに社会内に立ち現れたのか、それはいかなる社会的機制の変容に基づくものであったのか、そして、それ自身で価値あるものとして自明性を付与された「知識」・「思想」の質・中身がいかなるものであったのかが、今まさに問い直されるべきであると考えるのである。

佐藤慎一は『近代中国の知識人と文明』の冒頭で、貝塚茂樹が目撃したエピソード、著名な老儒(柯劭*)が「『四庫全書』には中国の書ばかりをとっているが、聞くところによると泰西の諸国も近来学問がだいぶ進歩したというから、今度の『続修』には、この西方の蛮夷の著書も少しは採用してもいいのではないか」と、民国十七年(一九二八年)の編集会議に至っても語ったという、たいへん印象的な逸話を紹介しつつ、中国の伝統的知識人」にとって、華夷秩序思想から近代文明論的自己認識への脱皮がいかに困難な知的組み替えであったか、そしてそうした新たな文明論的相対観に基づく「国民国家」の内在的理解が、彼らにおいてどのように屈折して進行したかを説得的に論じているが、一方日本における「知識人」は、そもそもどのような課題を担うことによって、社会内的存在として出現し得たのか。それを考える際、先ず問題になるのが、江戸期後半から近代へかけての「儒者」から「知識人」への転換のありようである。

すなわち、中国清末から民国初にかけての「読書人」から「知識人」への転換の躓きの石が佐藤の指摘するように、華夷秩序思想の読み替えに顕著に表出されるとしたら、そもそも知識人階級という社会区分、M.ヴェーバーがドイツ教養市民層と対比しつつ使った表現を使えば、(中国読書人の)「人文主義的教養の資格証明に相似た」「社会的『教養』身分」(野田宣雄『ドイツ教養市民層の歴史』から引用)に相当する「身分」が存在しなかった日本において、いかなる思想的生地や、共有する「前教養」的基盤から「国民」を語る「知識人」が発生し得たのか、そしてそこにおける躓きの石は何だったのか、という問題である。

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先にも引用した佐藤慎一は、別稿でむしろそれ以上に、ここでは(梁啓超においては)、かつて小島祐馬が「知識階級の支配」と名付けた伝統的支配構造の崩壊が鋭く自覚されているのである。

・・・そして梁啓超が、「政治」「学問」「道徳」の「過度」として見たものは、夫々まさにこの「三位一体」の内容の崩壊に他ならなかった。もはや、旧来の意味での「知識人」の権威を支える根拠は、どこにもないのである。逆に言えば、この段階においてなお、「知識人」が有意味な存在であり続けるためには、少なくとも、その知識内容の転換と、社会的役割の転換とが、共に必要とされであろう。(「『清末啓蒙思想』の成立」『国家学会雑誌』九二巻、五・六号)

として、「官僚的支配から思想的啓蒙へ」の方向に伝統的知識階級の「脱皮」が「半ば必然的」に行われざるを得なかった事情を言うが、伝統的に知識を有することそれ自体が社会内に意味を持ち、目に見えるかたちで一定の階層を構成していた中国と異なり、周知のごとく、近世以降の日本社会にそのような実体はなかったのである。

旧中国において勝義に社会なるものは士大夫の社会であった。庶民とは原理的に言って欠如態における士大夫であり、不十全なる士大夫、或は士大夫に周辺的なもの、の謂に他ならなかった。(島田虔次『中国における近代思惟の挫折』)

とされる知識階層のありかたに比して、江戸期の日本は、

中村深蔵[蘭林]、宝暦頃の奥儒者たりしとき、唯一人敬礼するものもなく、当直に出れば、若き小納戸衆など、孔子の奥方御容儀は美なりしや醜なりしやなど問て、嘲弄しけるとぞ。余りに甚しきことならずや。明安の頃、節倹の政令厳刻なりしとき、其旨を希ひし作事奉行より、昌平の聖堂は第一無用の長物なれば、取崩し然るべしと建言せしを、国用掌れる老職、水の羽州聞届て、既に高聴に達せんとて、ご用取次衆に申けるに、取次衆、聖堂と云もの何なることを知らず。奥右筆組頭大前孫兵衛に、聖堂に安置あるは神か仏かと尋しかば、大前、たしか本尊は孔子とか云ことに候と答ければ、取次衆、其孔子と云は何なりやと又尋ければ、大前、論語とか申書物に出候人と承り候と答けるに。・・・(『甲子夜話』巻四)

と松浦静山公に慨嘆されるような状況にあったのであり、そうした環境の中に「儒者は一人の芸者なり」(熊沢蕃山『集義和書』)とする自嘲や、「それ学んで以て仕ふる者は士の道なり。然れども今の政、儒者に議せずしてその治隆んなり」(皆川淇園『文集初編』巻一)とする述懐が存したのである(こうした近世の知識層をめぐる日本・中国・朝鮮の間の相違の部分(読書人・両班・御儒者)に関しては、渡辺浩『東アジアの王権と思想』に三点測量のかたちで明快にその差異が示されている)。そしてこうした社会ないでの居所のなさを嘆ずる儒者の発言は、幕末に至っても当時の儒学の中身や、世間の儒者そのものへの「鸚鵡芸」・「腐儒」等々といった内的批判の中に綿々と吐露され続けたのであった。

そして、こうした江戸期の儒者と、明治初の啓蒙知識人の言述を対比するとき、そこには埋めがたい溝が歴然とあるように見える。佐藤が清末民初の中国に指摘するような、「半ば必然的な」知識階層内部の知的組み替えの苦闘とは位相を異にして、明治初「啓蒙知識人」たちは、過去との決別とともに、まさに新しく世界を始めるように、自らの学問の自立と「知」の独自の領域の意味を高らかに述べるのである。

今我より私立の実例を示し、人間の事業は独り政府の任にあらず。学者は学者にて私に事を行ふ可し。・・・学術以下三者も自ら其所有に帰して国民の力と政府の力と互に相平均し、以て全国の独立を維持すべきなり。(「学者の職分を論ず」『学問のすゝめ』)

福沢諭吉のこの論文は、同時期の「知識人」を批判し私立学校の意義を論じたもので、この問題は後に『明六雑誌』において論争として展開し、背景にはまた、福沢の「一身独立して一国独立す」の大きなテーマがあるのだが、それらの点を別に、ここでは、学問の自立的価値(「学者」の任)と、「学術」が「国民」創造に関与することが自明のごとくに述べられている点に注目したい。そうした「学問」の自立的価値と「国民」形成を、より端的に表現するのは、小野梓の次のような発言である。

一国ノ独立ハ国民ノ独立ニ基ヒシ、国民ノ独立ハ其精神ノ独立ニ根ザス、而シテ国民精神ノ独立ハ実ニ学問ノ独立ニ由ルモノナレバ、其国ヲ独立セシメント欲セバ、必ラズ其民ヲ独立セシメザルヲ得ズ。其民ヲ独立セシメント欲セバ、必ラズ先ヅ其精神ヲ独立セシメザルヲ得ズ。而シテ其精神ヲ独立セシメント欲セバ、必ラズ先ヅ其学問ヲ
独立セシメザルヲ得ズ。是レ数ノ天然ニ出ルモノニシテ、勢ノ必死ナルモノナリ。(「東京専門学校開校祝辞」)

ついこの前までの姿とは異なり、学問それ自体での意義の確立と自らの「知識人」としての自負が、ここには明瞭に示されている。そしてそれがともに「国民」の創造に直にかかって云われているところに、「啓蒙知識人」の成立と「国民国家」創出との緊密な関わりが見て取れるのである。ところで、こうした、江戸時代を通じての「身分」として目に見える知識層の不在と、それらと連続し重複する明治初の「知識人」たちの、社会内存在としての自立の主張、「学問」それ自体での価値の主張、との間の距離を私たちはどう考えたらよいのだろうか。もちろんそこに、西洋の学問・政治の衝撃があったことは言うまでもないが、そうした外部からの契機に触発されつつ、内部において何がどのように発生したのか。その間における知的変質を、思想家個々人の内面的葛藤としてではなく、連続する時間内での知的編制の変容として、社会史的観点を導入しつつ語ることができないだろうか。そしてそれを、後の「国民」創造の中身に直接関わるものとして対象視する視点を提示できないだろうか。

中国近代知識人の形成における、「読書人・士大夫」からの質的転換との相異なる側面もさることながら、私がそのようなことを構想するのは、一方に、ドイツ「国民国家」形成の解明に関してなされた「教養市民層」への社会史的思想研究を想起しているからである(野田宣雄『教養市民層からナチズムへ』。フリッツ・リンガー『読書人の没落』、『知の歴史社会学』など)。彼らが、ドイツ「国民」形成の様相を決定づけた「教養市民層」の成立に関し、「その『教養層』の均質なイデオロギーのようなもの」の形成を、知識人の歴史的起源、学歴、社会的地位全体を描写することによって、知識人がある種の考え方を自明のものとし、一見してそれとわかる独特の反応の仕方をしたということを示したい。(『読書人の没落』)

知識人界は場として研究しなければならないという確信を、私は徐々に深めている。当然、それらはある実体であり、したがってそれを諸個人の集積に還元してはならない。それを研究することは、少なくともさしあたり次のようなことであると言えよう。すなわち、個々のテクストに示される表立った目論見から目を背けることにより、共有されている知的習慣と集合的意味に関心を集中するということである。・・・言うならば、ここでのひとつの狙いは、表出された思想の表面をくぐって、文化的前意識、すなわち暗黙の信念と認知的性向の領域にまで到達しようとする点にある。(『知の歴史社会学』)

といった観点から分析し、総体としての「知識人」世界の成立と、そこにおける問題を描きだそうとする試みやその手法が、日本の十九世紀、反徂徠の運動以降、明治初に至るまでの知的世界の推移を分析する上で示唆するところがあるのではないだろうか(ここで想定しているのは、いわゆる「寛政異学の禁」以降、明治第一世代までの百年足らずの間における知的編制の変質である)。

前述した「知識人」の成立における江戸後期と明治初期の間における、意識の断絶においても、明治において一朝姿を異にしたのだとして、その間の連絡のありようを考えずにすむわけはないのは当然だが、それを、「これまでの伝統的学問と西洋学との接合・折衷」(松本三之介『明治思想における伝統と近代』)とする観点(教義や理念の組み替えへの視z)や、そこに内在的「近代」の芽を合目的的に読み込もうとするのではなく、あるいはまた「(学問としての)儒教は、明治思想の形成において、なんら創造的な役割を果たさなかった」としつつ儒教と西洋学とが「一人の思想家の内面においておりなす葛藤のドラマ」着目する(渡辺和靖『増補版明治思想史』)といった、類型化と個別のドラマに還元するのでもないかたちで、この一筋縄でとらえがたい、雑然とした十九世紀の思想世界を語ることができないだろうか。すなわち、今日の「国民国家」形成一般を論ずる問題構成から、「儒者」と近代「知識人」成立との間を媒介したであろうものを、「国民的教養」形成に関わっていく儒学「知」の変質という視点から捉え、それを、歴史社会学的側面から読み出してみる可能性ということである。そのようにして初めて、我が国における「知識人」や「教養」の成立が、批判的に吟味され得るのだろう。

(広島大学助教授)

(『日本思想史会報』第16号掲載)


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【書評】 澤井啓一「知識はイデオロギーを越えられるか?―渡辺浩『東アジアの王権と思想』を読んで」

本稿は渡辺浩氏の『東アジアの王権と思想』について論評することを目指しているのだが、一般的な意味での書評とはいささか異なるものになるだろう。それは本稿で取りあげるのが主要には「はしがき」と「序」に限定されるからである。しかしその理由は、その他の論文がすでに別々の機会に発表されたものだからではない(これらの諸論文、とりわけ本文および注で示された詳細な「実証的」指摘は、近世日本思想史の研究を志す者にとって有益であるに違いない)。本書の「はしがき」と「序」のなかで、渡辺氏が、既発表論文を一冊の書物にまとめるにあたって、その全体像を示すためにつけられた書名のもつ意味と、その際に新たに施された改訂について述べているからである。既発表の論文をまとめて出版することはありふれたことだが、それらがある明瞭な意図のもとに生産されたとして自らを説明することはそれほど多くはないだろう。本書について論評するには、まず最初にそうした渡辺氏の言説に対して向かい合う必要がある。

渡辺氏は近世日本思想史の研究者のなかでもいち早く中国・朝鮮との比較の必要性を主張し、前著『近世に本社会と宋学』や本書に所収された諸論文においてその該博な知識の一端を示されてきたのだから、東アジアと銘うった書名についていかなる見解を提起しているのかは興味の惹かれるところであった。しかし「はしがき」ではいささか屈折した議論―同業者ないし日本以外の東アジア各地域を専攻する研究者に向けてのたぶんに防御的な議論―が展開されているばかりである。まずアジアという観念がヨーロッパで成立したものであることが説明され、ついで『和漢三才図会』を引用しながら、現代の「東アジア」に相当する地域に他とは異なる共通の特色があるという意識(漢字文化圏・箸文化圏の意識と要約されている)が存在したこと、その基盤として「人と物の往来、言語・風俗・文化・制度そして思想の流通」が「かなり濃密にあった」ことが指摘されている。そして日本思想史の研究においてこうした「相互交流を蒸し」することは「理解の深化に重大な限界」をもたらすと結論づけている。一般論としてはまさにその通りである。しかし近世日本とそれに対応する中国・朝鮮という本書が扱っている地域と時代を考える場合、「相互交流」といった表現を用いることが適切なのかといえば、大いに疑問である。というのも、東アジア全般の歴史的経緯における近世日本は、かつてそれ以前に存在した広範な人と物の交流―モンゴル帝国の成立という事件が端的にそれを物語っていると思われる―が冷え込んだ時期に相当するからである。日本の「鎖国」とまではいかないまでも、中国・朝鮮も対外交渉に消極的であった。こうした閉鎖的な領域が確定されるなかで、それぞれの地域に固有の色彩を帯びた思想・文化が以前にもまして明確な形をとって形成されていったのである。つまり、この時期の東アジアには「相互交流」などという事態はほとんど存在していなかった。

揚げ足取りをしているつもりはない。東アジアへと議論を拡張するに際して、渡辺氏が実際には見いだしがたいはずの「相互交流」をことさら強調したことに含意されている問題はなにかということを考えてみたいのである。さきに述べたように、この時期の日本はある程度閉鎖的な状態にあったし、モンゴルの直接的な影響をほとんど受けなかったことからも見てとれるように、他の東アジアの地域と比較して孤立的と言えるような歴史的経緯があった。それゆえ従来の研究においては、近世日本思想史を一つの閉じられた領域における変遷として扱うことが可能であったし、また一般的であった。こうした研究状況を大解するために渡辺氏は東アジアという枠組みへと歩を進めたと思われるのだが、その渡辺氏にあっても近世日本思想史は一つの閉止領域として特権化されている。「相互交流」という言葉はそうした渡辺氏の問題点を明らかにしている。東アジアという枠組みを持ち出しながらも、中国ないし朝鮮における思想史は、渡辺氏にとってあくまでも近世日本思想史の「理解」を「深化」させるための補助材料でしかない。たとえば「儒学史の異同の一解釈」という論文の冒頭で、近世の中国と日本における儒学思想の歴史は「広義の『朱子学』が有力な軸として存続し、他方、それへの批判も相継いだ」という点で「儒学史の基本構図が似ている」と述べているように、渡辺氏は中国の儒学史と日本の儒学史をそれぞれ別個のものとして発想している。すくなくとも、この発言からは「朱子学」を出発点とした東アジア全般にわたる儒学思想の展開を推究しようという意図を見いだすことはできないだろう。渡辺氏にとっての東アジアは、日本を中心に、中国・朝鮮といったそれぞれに閉じられた個別の地域の寄せ集め、せいぜいのところ「相互交流」としてしか関連づけることのできない空間なのである。

儒学思想を軸とした東アジア全体の思想史といったような、東アジアを一つのまとまった領域として扱うことに渡辺氏がためらいを覚えるのはある意味で理解できる。東アジアを一つの領域として認定することには、「アジアは一つ」といった過去の日本で唱えられたスローガンや最近盛んに主張されている「儒教文化圏」と言った議論との親和性がつきまとうからである。それゆえ推測にすぎないのだが、「王権と思想」という題名の選択には「儒教文化圏」と一線を画したいという配慮があったと思われる。所収された論文の多くが儒学(儒教)を扱っているのにもかかわらず「王権と思想」という表現が採用され(奇妙なことに英文タイトルには「Confucianism」という言葉が見られる)、それにもかかわらず「王権」という語の使用については、「世襲王権の在った時代」の「政治思想」を対象としていることの「暗示」だという以上の説明はない。たしかに儒学の王覇論などは扱われておらず、かえって国学の「皇国」意識が扱われているから、「王権」という語を用いてもさしつかえないのかもしれないが、東アジアにおける「王権」についてもう少し論じる必要があったと思われる。ひところ流行した「王権論」の導入までは期待しないにしても、この時期の東アジアに展開された儒学の主要な命題の一つが、王を中心とした一元的な支配を前提としながら、そこにおける王と臣のあるべき姿をいかに体系づけて説明するかということであったとすれば、それに対して近世日本では―二元的と言ってしまうと、渡辺氏が「序」において強憂く主張しているように、その時々の状況と齟齬をきたすかもしれないが―不明瞭な政治体制が存在し、白石、徂徠といった儒者や国学・水戸学の言説にそのことが反映されているとするならば、近世東アジアにおける政治体制とそれをめぐる言説の基本に関わることとして、「王権」の問題は「世襲王権」という事実の指摘だけで片付けてよいはずがないからである。

渡辺氏が王権論について言及を避けたことには、さきに指摘した東アジアの儒学論を展開する意図がないということに相通じる問題が横たわっている。渡辺氏は何々論といった形式の議論を自らが作りだすことを忌避しようとしてる。たしかにこの種の議論では、全体像や推究上の到達点があらかじめ設定され、完結的な〈物語〉を語るかのように議論が展開されるという問題がある。それを回避するためには理論ないし方法論の妥当性が問われるのだが、普遍的な妥当性を獲得することが困難であるのもまた事実である。そこで渡辺氏は、予断を避け、その当時の社会の在りようを詳細に叙述することによって、思想をあるがままに浮かび上がらせるという手法を選択した。本書の主要な論文はこの手法に基づいて書かれているし、本書の書名が全体像の提示であるように見えてじつは渡辺氏の関心の広がりを暗示しているにすぎないということも、ここに理由がある。だが、この手法を成功させるには、ある時代の社会の実像を十全に描きうるようなディテールを探しだす時間とエネルギーが必要である。またそれ以上に、そうしたディテールを語るにあたっては可能なかぎり語り手である自己の姿を消し去るという自己抑制の力も必要とされる。ディテールの選択が語り手の予断に基づくものだと読者が気づいたとたん、この手法はたんに情報を提供するだけのものに堕してしまうからである。それを避けるためには、読者を眩惑させるにたるだけのプロットやストーリーが必要であり、なによりも読者を語り手の関心の範囲内に押しとどめておくことが不可欠である。

「序」で述べられた「日本史用語」に関する議論は、渡辺氏が自らの手法を防衛するための装置である。一見したところ適切な用語選択の問題という形式をとっているが、これは明らかにイデオロギー批判である。「幕府」・「朝廷」といった用語が問題になるのは、近世日本の曖昧な王権の在り方に由来し、その曖昧さが時間の推移とともに変化してきたからに他ならない。そしてこのことは、近世日本を対象に研究する者のほとんど誰でも渡辺氏の指摘を待つまでもなく―渡辺氏が引用された文献すべてを熟知してはいないまでも―知っていることである。王権の曖昧な在り方もしくは変化それ自体がテーマとなる場合はともかくとして、それ以外では「幕府」か「公儀」か、「朝廷」か「禁裏」かといった用語選択の問題はそれほど重要ではない。というのは、歴史用語といっても、それが言語である以上、その伝達機能には限界があるからだ。言語によって伝達されるのが指示対象そのものではなく、そのイメージ(言語を使用する人々によって共有されたイメージ)であるということはもはや常識である(「制度・体制・政治思想」という文章を書いた渡辺氏がそのことを知らないはずがない)。渡辺氏は「幕府と朝廷」に代えて「公儀と禁裏」と言えば、「現在の通念とはやや違う図柄が浮かび上がってくるはず」だと主張するが、それは渡辺氏が「公儀」・「禁裏」という語に特別な意味(イメージ)を付与しているからである。渡辺氏がこうした新たな用語を提示したところで、「幕府」・「朝廷」という語が示している内容に曖昧な問題が存在していると認識している者にとっては代用品の提供という以上の意味はなく、逆に近世日本についてほとんどなにも知らない者にとっては意味不明の言葉が新たな二つきつけられただけのことである。

問題なのは、「幕府」・「朝廷」といった用語における「現在の通念」といったものを渡辺氏が肥大化させていることにある。これらの歴史用語が近代日本で生産されたイデオロギーを帯びているのは当然のことである。なぜなら歴史学、あるいは学問それ自体が近代日本において生産されたからである。したがってこうした用語に潜む近代日本のイデオロギーを暴露し、それを批判することは無意味なことではない。しかし渡辺氏の議論はそれとは異なる効果を狙っている(渡辺氏に近代日本のイデオロギーを批判する意識があったならば、他の用語についても同じような配慮が働いたはずである。たとえば、その当時には使用されることがなく、近代以降のイデオロギーが注入されている「国学」という語など、その典型である)。そこでは「後期水戸学」とか「皇国史観」という言葉が使用されているからである。言葉の使用に厳密な渡辺氏が、戦前における自称としては稀で、かえって戦後の批判的叙述のなかで頻繁に使用されてきた「皇国史観」という言葉をあえて用いた意図は明白である。「幕府」・「朝廷」に関する「現在の通念」のなかにそれを組み入れたかったからに他ならない。中世以来の武家政権といった程度の意味で「幕府」という語を用いているところに、「皇国史観」の共犯者というレッテルは絶大な効果をもつことだろう。このことにょって、「公儀」・「禁裏」という語の使用はmそれがなぜ代替の用語としてふさわしいのかという理由が明示されることなく―渡辺氏は「当時最も普通の呼称を使うのが、自然である」としか述べていない―特権化されるのである。

「最も普通の呼称」と渡辺氏が述べているのは、言葉の使用頻度のことであろう。たしかに使用頻度から、政治的文書において顕著なように、特定の個人や集団に固有の意識を導き出すことはできる。だが、その逆を想定することも可能である。すなわち特別な意識が働かないかぎり、もっともありふれて慣れ親しまれた言葉が選択されるということである。さらに独創性は使用頻度という基準では測れない。結局のところ、使用頻度は多いか少ないかということに帰着し、ある言葉を概念用語とするための保証とはならない。概念用語の保証は、それを使用する側の理論や方法論、あるいは価値観によってなされるしかない。そして、じつは渡辺氏も使用頻度以外の尺度を使用しているのである。ただ、渡辺はそれを「歴史認識の臣下」によってのみ到達可能な近世日本社会の真の姿としてしか語らない。たしかに渡辺氏が獲得した近世に本社会に関するディテールは他の人々よりも「深い」かも知れないが、それは渡辺氏が思い描いたかぎりにおける近世に本社会の〈実像〉でしかないのである。ディテールの集積が〈実像〉であるという確信が何によってもらされたのかということは、渡辺氏が論文のなかにちりばめた大量の知識(渡辺氏によれば「事実」だろうが)によって隠蔽されている。

あまりにもきらびやかに知識がしめされているがゆえに、韜晦といえるかどうかは分からないが、じつは私はこうした渡辺氏のスタイルは嫌いではない。しかし、「はしがき」と「序」を読みながら違和感を覚えたのは確かである。渡辺氏が何にいらだっているのかは定かではないが、自らのスタイルを楽しむのではなく、他者に強要するという姿勢が強く感じられたからである。言葉に隠蔽されたイデオロギーの暴露は、宣長に代表されるようにイデオロギー闘争の常套手段である。だが渡辺氏の場合、それが明示されていない。内部に向けてのイデオロギー統制ではないと思うが、その目的をもう少し渡辺氏は語る必要があるように思う。(1997年、東京大学出版会、3,400円)

(恵泉女学園大学教授)

(『日本思想史研究会会報』第16号掲載)
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【巻頭言】 岩井忠熊「日本近代思想史研究の方法をめぐって」

思想史に関心をもち出した若いころにディルタイの労作とくに『世界観学』やボルケナウの『封建的世界像から近代的世界像へ』に影響された。然し間もなくディルタイの精神史は基督教ないし西欧世界の思想にしか適用しえないし、ボルケナウの方法も日本近代思想史研究の上ではほとんど役に立たないことが分った。念のためにいえば、ボルケナウの方法にしたがって日本の封建思想の解体過程と萌芽的日本近代思想の形成をたどることはできる。しかし日本の近代思想はそのような経過をたどって成立したのではなく、欧米からの移植によってでき上がったのであり、ボルケナウの方法はせいぜい移植の前史、その基盤にしか活用しえないからである。三一年前の小著「日本近代思想の成立」はそのような問題を自覚しはじめたころに書いたのでボルケナウ的発想をとどめている。それは明治維新をもっぱら国内の原動力から説明していた当時の日本近代史学の傾向をとどめていたということもできよう。

以上のような問題を自覚しはじめてから間もなく一九六〇年「安保闘争」を経過し、明治維新を「世界資本主義の形成」の一環として研究すべきことが提唱され、今日にいたった。わたくしのつきあたっていた問題と解決の方法は、そのような動向と一致していた。日本近代思想の成立=欧米近代思想の移植とは、「世界資本主義の形成」過程における日本的思想動向にほかならないのである。しかし欧米から移植された近代思想の展開過程を日本近代思想史といえるであろうか。日本近代哲学史ならばある程度それですむかもしれないが。

すでに『日本近代思想の成立』において「明治国家の思想」と「日本近代思想」の対抗争の中に日本近代思想史を見ようとした時、日本において真の近代思想の成立を困難にしているものが「明治国家の思想」であるという見通しをもっていた。丸山真男氏の影響があったことは否定しえない。とに角日本近代思想史の到達点、いわばプラスの思想史研究という学界の主流(その頂点に家永三郎氏の業績があり、最近の自由民権思想研究におよぶ)に背をむけて、マイナスの思想史研究、明治国家主義思想の研究に入っていったのは、このような経過からであり、その時に日本近代思想史は単に欧米思想史の移植史ではありえないというあらたな反省に到達した。

「大学紛争」のさ中にまとめた『明治国家主義思想史研究』のとくに初版は粗雑な校正で赤面せざるをえない。もうすこし余裕があったら書いておきたかった点があちこちにのこされたままである。ここで一区切りをつけながら、思想史研究に一つの限界を感じはじめた。国家主義思想とはそもそも政治支配の一部として研究すべきものなのではないか。明治国家主義思想とは結局近代天皇制思想にほかならない。だが、近代天皇制の国家論的研究ないしは政治史的研究は、近代天皇制思想研究の前提でありながら、相かわらず絶対主義ないしボナパルティズム論議を出ていない。むしろ天皇制の実態的研究こそが必要なのではないか。多忙な役職できれぎれになったが、ここ十数年のわたくしの研究はそこに集中してきた。いずれそのような研究に区切りをつけて、国家主義思想史研究にもどるつもりである。

思想が政治を媒介としてとらえられねばならぬことは、政治が経済的土台からとらえられねばならぬこととおなじくらい自明である。しかし政治は政策に矮小化されてならないし、民衆意識を除外して成り立つものでもないだろう。政策体系と国家、思想支配と民衆意識、そこにおける「常民」の存在等、解決しなければならぬ課題は多い。それにしても思想史とは本来歴史的実在を認識するためのカテゴリーであり、歴史的実在そのものの認識を使命とする。しかし歴史を新しい段階におし進める主役は思想であることを確認したい。

(立命館大学文学部教授)

(『日本思想史研究会会報』第5号掲載)
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【巻頭言】 衣笠安喜「千利休の黒」

茶の世界では黒茶碗が愛用される。瀬戸黒や黒織部もあるが、最も好まれるのは、半島形の利休形の黒楽であろう。利休所持と伝える長次郎の黒楽焼「大黒」(重文)に似せたものも多く、わたしの数少ない持物のなかにもそれがある。

千利休が黒好みであったことはよく知られている。とくに、天正十八年(一五九〇)九月十日、博多の商人神屋宗湛と大徳寺の珠首座を招いての茶会で、黒茶碗を使い、これを片付けて瀬戸茶碗に置換え、「黒キニ茶タテ候事、上様御キライ候ホトニ、此分ニ仕候」といった話(宗湛日記)は有名である。上様つまり秀吉と利休との美意識の対立を示す挿話として、また間もなくやってくる利休自刃の悲劇を予測させるものとして、利休を語るときにはしばしばこの話がとりあげられるのである。

黄金趣味のはで好きの秀吉が、黒茶碗を嫌ったのはその陰気臭さのためであろう。その秀吉と衝突することを重々知りながら、利休がなぜあえて黒を愛用したのか。利休は黒について「内赤ノ盆ハ、赤ハ雑ナルコヽロ也」と語ったという(宗湛日記天正十五年正月十二日の茶会の条)。この「内赤ノ盆」とは、中世の朱漆器の代表である根来盆の日の丸盆(黒に表だけ朱の上塗り)、「黒ハ古キコヽロ也」とは奈良平安朝の仏器などに多い黒漆をさすのであろうか。根来盆のなかにも黒根来があったようだが、朱や朱黒併用より黒塗りが古いとは断定できないようである。それはともかくとして、利休が黒を「古キコヽロ」ととらえていたことに注目したい。


利休の黒好みは秀吉との対比でのみ語られがちであるが、実はもう一つの批判がある。堂上から地下への文化の普及に勤めた松永貞徳の批判である。貞徳によれば「光明朱に椀折敷をぬるは、(中略)くらき胎内より出生したる此界(この世界)を表するなり」である。朱を人間出生の秘密にこじつけて解釈するのが古今伝授にあるが、貞徳のこの朱塗りの解釈もそうした中世秘伝伝授の思想に基くものであろう。そうした思想の上からは貞徳は「かやうの子細あるをもしらず、近年宗易が茶湯に、用そめて、黒闇の椀折敷用る事、いまいましくおぼえ侍り」(戴恩記)と利休を非難するのである。

貞徳は幅ひろい教養と知識をもち、秀吉の佑筆もつとめ、茶にも嗜みがあった。すぐれた啓蒙家であったが、俳諧が流行するとみると式目を制定したように、形式主義で伝統主義者でもあった。利休は、貞徳に代表されるような、時流に乗って大衆化しつつある中世的伝統への鋭い批判者にほかならなかったのである。利休像をこうした観点からみなおすことが必要であろう。それはまた、近世的啓蒙の性格を問い直すことでもある。

(立命館大学文学部教授)

(『日本思想史研究会会報』第1号掲載)
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【書評】井上智勝「田中秀和著『幕末維新期における宗教と地域社会』」

はじめに

田中秀和氏著「幕末維新期における宗教と地域社会』は、氏の遺稿集である。氏は一九九六年四月、三十六歳で夭折された。本書は氏が既発表の諸論考をひとつにまとめるばく編んでいたもので、構成そのものを含めて未完成の草稿である。評者の力量不足に加えてそのような事情があるため、誤読、曲解著者の意を得ない部分も多いと思うがご容赦いただきたい。一本書は、第一編「近世の地域社会と在村小社」、第二編「明治初期の宗教政策と地域社会」、第三編「東北・北海道の統治と宗教政策」の三編構成で、各々四、五、四の各章から成っている。

第一編「近世の地域社会と在村小社」では、弘前(津軽)藩を中心に北奥羽の宗教をめぐる藩権力と「地域社会」の関係が論じられる。江戸時代を通じた時期が対象とされ、当該地域の宗教社会史のアウトラインが提示される。なお第一章は、いまだ推敲段階のためであろう、第二章以下の内容を踏まえたものとなっている。第二編「明治初期の宗教政策と地域社会」では、第一編を受けて神仏分離という明治初年の宗教政策のなかで旧来の地域的な宗教統治体系およびその構成要素の変容過程が述べられる。対象地域は主として弘前藩域で、維新を迎えても江戸期以来の宗教統治の体系を受け継ぎながら展開していた宗教政策が、明治六年政府の神社改正によって消滅する過程が述べられる。第三編「東北・北海道の統治と宗教政策」では、近世~明治初年にかけての北海道および東北における宗教制度・東北の宗教政策が「開拓」・「教化」を主軸に置いて推進されたことが説かれる。文化期に設置され、既に安政期には存在意義を失う三官寺や、幕府直轄領となって行こう松前を凌いで対当する函館の神社組織を中心とした神社政策が、「開拓」の論理の高揚によって否定されゆく様子など、北海道の対外的重要性が高まる中、宗教施設や統治体系もより中央権力の規制を強く受け、変容してゆく様子が明らかにされている。本編で、青森県に関わる部分などは当然第一編・第二編を踏まえた叙述になっているが、北海道については松前藩・幕府直轄領時代の状況が説明された上で明治初年の変容が述べられており、本編独自の要素となっている。

以上のように本書では、津軽を中心とした北奥羽と北海道を対象として、それぞれ近世の状況を提示した上で、明治初年の状況が検討されている。叙述は当該地域の宗教をめぐる浩瀚な問題に亘り、かつ近世前期~明治初年という広い時間軸の問題に及んでおり、北奥羽・北海道の宗教社会史をダイナミックに把握しようとしたものといえる。書名が『幕末維新期における宗教と地域社会』であることから明らかなように、本書の重心は江戸期ではなく維新期にある。全三編のうち二編までが維新政府の政策による地域社会の宗教体系の変容を扱ったものである。氏は、北奥羽と北海道を一体化して捉えるという、境界通念にとらわれない地域把握の姿勢を明確にし、「地域から逆照射することによって明治政府の権力的性格をより明確化できる」(第三編第二章)と述べている。田中氏の問題関心は、明治維新によって成立する「中央」としての新政府と、独自のあゆみを持った「地域」との関係、換言すれば「中央」によって「地方」がいかに変容を被ったかという点にあった。田中氏が地域を対象とした検討によって、「中央」・国家を相対化する地域社会論の立場から本書を完成させようとしていたことは間違いない。



以上のように全体像を理解した上で、以下本書で示された成果・内容について批評を加えてゆくことにする。ただ、既に述べたように本書で述べられる内容は幅広く、それゆえ個々の内容に立ち入っての批評は紙幅等の都合から省略する。

まず、藩権力による宗教統制の方式とその展開の概要を、近世~明治初期という広い時間軸の中で跡づけた点は高く評価されてよいだろう。藩の宗教政策についてはこれまで、例えば元禄期の水戸藩など個性的な藩主のもとで遂行された宗教政策など、いってみればあまり一般化できないような事例については研究があり、よく知られていた。しかし藩権力による宗教統制が、藩の統治体系の一環として、すなわち日常的な藩制の中に位置づけられることは少なかった。かかる状況への反発から生まれた田中氏の成果は、特定の事例に基づいて一般化される歴史像に対するアンチテーゼである。

同様の姿勢は神仏分離研究に置いてより濃厚に看取できる。氏は従来の神仏分離が廃仏毀釈を伴う事例によって認識されることが多く、それによって神仏分離が一般化されていることに対する違和感を再三説いている。むしろそのような激化を伴わない、いわば一般的な神仏分離を見ようというのが田中氏の志向であった。近年、かかる立場からの歴史研究が大きな成果を上げつつあるが、その重要性を再認識させられる。

領国地域の宗教社会史研究を推進したという面に置いても、田中氏の成果は貴重である。近年、宗教に関わる諸事象を当該期の社会の構造・動向の中で捉えてゆこうとする宗教社会史研究が盛んになりつつあるが、これらの多くは田中氏も説くように領国地域を扱ったものではない。本書において領国地域である弘前藩の宗教支配方式は、藩権力、宗教者および在村小村、本所(朝廷)の三つの要素を踏まえながら解明される。高埜利彦氏の提唱(『近世日本の国家権力と宗教』東京大学出版会、一九八九年)以降、近世縛藩権力は朝廷を組み込んで成立していたという認識が広く研究者の間で共有されるようになってはいるが、藩権力の宗教者統制にかかる視点を組み込む形での成果としてまとまったものはなかったのである。

この成果は、単に宗教社会史研究に留まらず、朝廷と藩の関係、いわば朝藩関係史の解明にも手がかりを提供しているといえる。例えば、第一編第四章において弘前藩の神職が自らの身分を確立・保証、あるいは上昇させるために藩権力にすり寄ってゆくことが明らかにされている。ここからは領国地域においては宗教者の身分を保証していたのが藩権力であったことが理解できる。しかし一方で藩権力は本所吉田家を自らの宗教支配体系の中で利用している。また、弘前藩の修験統制は当山派に属する大行院を核に行われていた。なぜ、弘前藩の修験統制は吉田家や当山派などの朝廷に連なる本所組織を利用したのか、この問題への解答が単に「権威付け」などという曖昧なものを越えて導き出せれば、藩における朝廷の位置づけがより明確になるはずである。しかし、田中氏がこの点についてつっこんだ検討をしていないことは残念である。

本所の問題をひとまず措けば、権力と、宗教者・宗教施設の地位の関係を明らかにしたことは重要である。弘前の場合、権力への迎合、あるいは利用による宗教者・宗教施設の地位上昇が図られたが、第三編で説かれる函館の神社組織もまた権力との関係性から台頭したのであった。函館の場合、幕府の直轄領になることで藩権力以上の国家権力に接近する機会を得たのである。神社が権力主体の安穏を願う祈祷を積極的に行う理由がここに明らかにされている。このほか、自治体史を除けばこれまであまり言及されることのなかった北海道の宗教政策とその展開の解明も貴重な成果として特筆されるべきである。

以上、もちろんこれだけに留まらないであろうが、本書で示された成果を評者なりにまとめてみた。続いていくつかの批判点について述べることにする。



如上の成果は、先述のとおり「地域社会」から「中央」・国家の相対化を志向する地域社会論の立場から紡ぎ出されたものである。しかし、それにも拘わらず津軽でも北海道でも、あるいは秋田でも「地域社会」について生き生きした姿をイメージすることができなかった。例えば「在村小社」が村落においてどのような関係性の中で存在しているのか、換言すれば村の人々はどのようにして「在村小社」やそこに奉仕する宗教者と関わり、それを支えていたのかという点が見えてこないのである。

これは、田中氏の「地域社会」認識に由来する。田中氏が本書で描く「地域社会」は、藩の宗教統治体系や政治・行政レベル、および神職・教導職などその末端に連なる者の活動を主軸として語られる。かかる要素の検討によって、「地域社会」が把握し得るとの観点に立つのである。田中氏の関心は、あくまで「地域」からの国家権力の相対化にあり、固化権力に対置されるべきものは、やがてそれによって変容を余儀なくされる地域権力やそれが作り上げた支配体系とその機能面であった。田中氏のいう「地域社会」は、極論すれば地域権力が創出した統制システムということができる。村落など被統制対象の内実にまで十分な検討が及んでいないのである。

このことは第一編に端的に現れている。ここで氏は、藩権力による宗教統制と地域の宗教者・宗教施設の関わりを説くという、常に藩権力を意識した分析手法を採っている。この場合、「民衆」が生活する村落社会の諸関係の中で地域の宗教者・宗教施設を捉えようとする方向は弱い。村落史料を利用して叙述を進める箇所も少なくないが、それでも「民衆」と宗教との関わりは部分的にしか伝わってこない。したがって、藩権力による宗教者を介した「在村小社」の統制が説かれても、具体的にどのような統制を藩権力が志向したのかについては理解が及ばない。また、自社書上提出時、宗教者と氏子間に談合があったという事実のみをもって、神仏分離において一村一社が氏子の支持をある程度受けたものと説かれても、にわかには首肯しがたいのである。北海道の宗教の問題を扱ってもアイヌの動向がほとんど明らかにされていないことも、かかる手法に由来するであろう。すなわち「地域社会」「在村小社」の解明を目指しながらも、在地社会の中でこれらを捉えようとする村落社会史研究の姿勢からのアプローチが欠如しているがゆえに、「民衆」があまりに登場しない「地域社会」像の提示に帰結しているのである。とはいえ、権力から遊離していく全く独自に展開する「民衆」世界が存在するとは思われない。田中氏の研究は一面で確かに「地域社会」の解明なのである。したがってこの成果に村落社会史的アプローチから析出された成果が肉付けされたとき、「地域社会」や「在村小社」はより明確な形で現出してくるはずである。

このように田中氏の研究は、支配と「地域社会」の関係、すなわち権力による地域支配体系(その末端に位置する宗教者等を含む)およびその展開と変容過程の解明なのであり、「地域社会」研究としては一面的な域を出ていない。その意味で評者は、第一編の標題「近世の地域社会と在村小社」にはやや違和感を抱いている。むしろ第一章の「地域権力と宗教」こそが同編全体の内容を的確に表していると考える。同様の理由から書名『幕末維新期における宗教と地域社会』についても、全体をカバーした標題になっていないように感じる。書名にも「権力」という語が入っていた方がより内容に適したものになったのではなかろうか。



本書では、維新政府を「中央」権力として強く認識するが、幕府権力を「中央」とみる姿勢はあまり感じられない。このことは、当然田中氏の問題関心とそれに基づく近世国家権力観に規定されている。前述のように、田中氏の主たる問題関心は維新期の「中央」権力の成立と「地域」への介入から生じる。自立的に展開していた「地域社会」システムの変容という点にあった。そして第二編・第三編では地域の事象を検討しながらも、常に新政府が念頭に置かれている。この点は第一編と対照的である。第一編においては、当該期の固化権力たる幕府は地域に強制力をはたらかせる「中央」としての位置づけではほとんど登場しない。むしろそこでは地域権力としての藩権力が独自の政策を展開している様子が強調される。第三編では松前藩より上位の権力としての位置づけは感じられるが、明治政府ほど強力な捉え方ではない。田中氏は、維新政府の権力を幕府権力よりはるかに強大な権力として認識しているのである。この認識はおそらく正しい。だがそれが前提としてなっていては、「地域から逆照射することによって明治政府の権力的性格をより明確化」することは十分にはできないであろう。幕府という前代の「中央」権力をもまた「地域から逆照射」して把握してその質的差異を認識し、「明治政府の権力的性格」を検討する際の相対軸と為すことが必要なのではないか。地域を中心に、幕府との比較において維新政府を捉えることでその「権力的性格」はより明確になると考える。

また、第一編で北東北の宗教社会史のアウトラインが解明されたことを述べたが、それがあくまでアウトライン解明の位置を出ていないこともまた認めなければならない。つまり藩政における宗教支配の諸段階やその画期が説かれはしても、それがいかなる社会的背景のもとに惹起した事象なのかという歴史的な問題については、説明されていない場合が多いのである。氏が藩の宗教統制システムが確立したと位置づける宝暦期については、他の研究者の成果に依拠して説明がなされているが、その他の画期についても何らかの説明が欲しかった。

とはいえ、本書の中心は維新期にあるから、近世の叙述はあくまで前史であると理解できる。また、田中氏の対象とした地域ではそのような前史がこれまで十分に明らかにされておらず、氏は自己の問題意識を追究するために自ら前史を開拓しなければならなかった。かかる見方をすれば、近世史部分に関する如上の批判は筋違いなのかもしれない。当該地域の宗教社会史のアウトラインを解明したこと自体、大きな成果なのである。しかし、近世北東北の宗教社会史の解明が未完成であることは事実であり、それは田中氏の成果に肉付けしていくことで完成するはずである。このような考えから、ここではあえてその欠点を指摘した。

おわりに

以上、評者なりに田中秀和氏著『幕末維新期における宗教と地域社会』を批評してみた。的外れな批評や論じ残した点も多かったと思うが、以下これをまとめてみる。

本書は「北方地域」(北海道+北東北地域)を対象として、地域社会論の立場から「中央」権力の相対化を目指した研究書である。その過程において当該地域の宗教社会史像をこれまでになく豊かにし、かつ従来の近世史、特に宗教社会史研究的姿勢の欠如、個々の画期や事象の背景が十分に明らかにされていないなど、残された課題も多い。また扱う問題が当該地域の宗教社会史の幅広い部分に及んでいるため、論証の荒さや推論が目立つ感もある。評者も疑義や反論を持つ部分もあるが、紙幅の都合等からここでは省略した。
もちろん、ここで指摘した批判点については田中氏自身認識し、克服の必要を感じていた部分も多かったであろう。例えば、氏は明らかに村落内部の動向を踏まえて地域社会を検討する必要性を述べている(第二編第二章の註一一四)。氏が存命ならば、必ずやかかる点を克服した壮大な北からの宗教社会史研究が完成したと思うと残念でならない。
しかし、そのような克服されるべき点を認識した上でも、本書が「北方地域」の宗教社会史研究の出発点となり、当該分野に大きな位置を占めてゆくことだけは疑いがない。

(1997年、青文堂、9,800円)

(大阪市立博物館学芸員)

(『日本思想史研究会会報』第16号掲載)
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