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日本思想史研究会(京都)のブログ

本研究会は立命館大学を拠点に、歴史学・思想史の問題について時代・地域に捉われることなく、深く考えていく場として設立されました。

2019年6月25日(火)例会予報

論題:結核菌を飼い慣らす――戦前期日本の通俗医学書・雑誌における結核の発病予防をめぐる言説
報告者:塩野麻子

要旨:
近代日本の結核予防をめぐる歴史研究は主として政策や制度に着目してきた。これらの政策や制度は、医家が回想するように「もっぱら伝染防止に重点がおかれていた」1ため、先行研究の多くは、結核を予防するための衛生実践を都市空間やそのなかで生活する集団に向けられたものとして捉えてきた。これに対して本報告は結核と個別の身体との関わりに焦点をあてる。医者や医学者が一般大衆へ向けて医学や衛生に関する知識を提供した通俗医学書・雑誌を分析資料とし、日常生活のレベルで密着した結核予防をめぐる医者や医学者による記述を検討する。
これにあたって、医学研究の場では20世紀初頭から1930年代までは、西洋の医学的知である、多くの人々は小児期に結核菌の感染を経過しているという見解が日本においても支配的であったこと、またこうした考えが特に1920年代から通俗医学書・雑誌を通じて広く発信されるようになっていたことは極めて重要である。誰しもが結核菌に感染していることを前提に、菌を内包する身体への不断の管理統制が促された可能性が示唆されるからである。
本報告は、1920年代から30年代までの通俗医学書・雑誌における、病原菌の感染を前提とした結核の発病予防の記述を分析・検討する。これらで論じられたのは、寄生した病原菌を体外へ駆逐することではなく、むしろ病原菌を結核に対する免疫を与えるものとして体内で手懐けること、すなわち「結核菌を飼いならす」技法であった。

主要参考文献
原栄『肺病予防療養教則』〔大改訂第17版〕吐凰堂、1921年。
岡治道「結核予防問題ト其体系」『結核』第10巻第1号(1932年)、39-51頁。
宮原立太郎『肺の発病予防とその治療』三成社、1931年。
遠山椿吉「結核の感染予防と発病予防の極意」『通俗医学』第4巻第6号(1926年)、21-23頁。
青木純一『結核の社会史――国民病対策の組織化と結核患者の実像を追って』御茶の水書房、2004年。
福田眞人『結核の文化史――近代日本における病のイメージ』名古屋大学出版会、1995年。
成田龍一「衛生意識の定着と「美のくさり」――一九二〇年代、女性の身体をめぐる一局面」『日本史研究』第366号(1993年)、64-89頁。
常石敬一『結核と日本人――医療政策を検証する』岩波書店、2011年。
William Johnston, The Modern Epidemic: A History of Tuberculosis in Japan (Cambridge: Harvard University Press 1995)
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2019年6月11日(火)例会予報

論題:竹内好・加藤周一の「近代主義」と「西洋」 ―「論争的関係」に着目して―(仮)
報告者: 福井優

要旨 :
中国文学者・評論家、竹内好(1910–77)と評論家、加藤周一(1919–2008)は、その思想的営為において、共に戦後日本の近代化(=民主化)の実現可能性を追求し続けた「近代主義」的知識人である。
戦後日本は、敗戦により他者としての「西洋」との全面的接触が起こり、それによって近代化が外発的にもたらされた。両者は、このような「第二の開国」(丸山眞男、神島二郎)の状況を問題視し、外発的な近代化という事実を、いかにして日本社会の内発的な近代化へと転換できるか、また、人々の内部に、内発的な近代化を推進する主体的エネルギーをいかにしてつくり出すか、という問題を考えた。しかし、同様の問題意識に立脚しながらも、両者のそれへの解答は、様相を異にするものとなる。それは、日本における近代化の主体的エネルギーとして、竹内が見出したのは「西洋」に対する〈抵抗〉であり、加藤の場合は「西洋」との〈雑種〉であった。そして、両者の間では、敗戦直後から1950年代にかけて、この問題を巡り、論争が展開された。
本報告では、竹内「中国の近代化と日本の近代化」(1948)、加藤「日本文化の雑種性」(1954)を中心的なテキストとして、両者の「論争的関係」に着目する。その上で、他者としての「西洋」との接触がもたらした、戦後日本の近代化という問題を巡る竹内と加藤との思想的格闘を再現する。

主な参考文献
・加藤周一『加藤周一著作集7 近代日本の文明史的位置』平凡社、1979年
・竹内好『日本とアジア』ちくま学芸文庫、1993年。初出は1966年

・海老坂武「雑種文化論をめぐって――加藤周一を読むこと」『戦後思想の模索――森有正、加藤周一を読む』みすず書房、1981年
・小関素明「加藤周一の精神史――性愛、詩的言語とデモクラシー」『立命館大学人文科学研究所紀要』111号、2017年
・佐藤泉「挑戦者と普遍主義――加藤周一の竹内好評について」『現代思想』2009年7月臨時増刊号
・同「第一章 竹内好」『一九五〇年代、批評の政治学』中公叢書、2018年
・孫歌『竹内好という問い』岩波書店、2005年
・日高六郎「解説 戦後の「近代主義」」同編『現代日本思想大系34 近代主義』筑摩書房、1964年
・鷲巣力『加藤周一を読む――「理」の人にして「情」の人』岩波書店、2011年
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「憲法草稿評林」と明治の憲法思想

論題:「憲法草稿評林」と明治の憲法思想

報告者:路剣虹

要旨:
明治憲法はアジア国家の最初の憲法いわれる。あるいは、アジアにおいて、始めて成功した事実上の憲法というほうが相応しい。なぜなら、オスマン帝国はアジアの国家として、一九七六年、憲法を公布したが、わずか二年間で中止されたのである。そして、なぜ日本の明治憲法が成功したかについて、新井政美は両国の憲法の成立を比較し、上記の問題を検討してみた。新井の結論を敷衍すれば、それは「伝統と近代との調和」ともいうべき、今回の「西洋という他者」の視座からみれば、つまり、自己と他者との間の調和が成功したのである。
明治憲法の成立とは、明治一五年、伊藤博文の欧州へ旅立った事件を始まりと見なすほうが相応しいと考えられる。なぜなら、一〇年前の岩倉遣欧使節団の欧州考察と比べ、伊藤博文の調査の目標が明確であった。それは井上毅を代表とする政府指導層は、ドイツ憲法をモデルとして、明治憲法を作成する意欲を明らかに表明したのである。つまり、それは明治憲法の始まりともいえる。しかし、それは明治の憲法思想の始まりではないのである。明治の憲法思想の始まりは、岩倉遣欧使節団の出発と並行した、数多くの憲法草案の作成であった。そしてそれらの憲法思想は、一八七五年立憲政体の詔書が公布された後、流布しているさまざまな憲法草案において存しているのである。今回の報告において、「憲法草稿評林」という資料から、明治の憲法思想の起源を含味し、そこに含む伝統と近代との調和、あるいは、自己と他者との調和を思索する。その上で、その憲法思想が帝国憲法の成立以後の影響をも論じてみたい。


参考文献及び資料:
新井政美『憲法誕生――明治日本とオスマン帝国 二つの近代』、河出書房新社、二〇一五年。
瀧井一博『文明史のなかの明治憲法――この国のかたちと西洋体験』、講談社、二〇〇三年。
小西豊治『もう一つの天皇制構想――小田為綱文書「憲法草稿評林」の世界』お茶の水書房、一九八九年。
『大久保利通文書』、東京大学出版会、一九六八年。
上杉愼吉『帝國憲法』、清水書店、一九〇五年。
伊藤博文『帝國憲法皇室典範義解』(五版)、一九〇四年。
穗積八束『穗積八束集』、信山社、二〇〇一年。
佐々木惣一『立憲非立憲(国民普及版)』、弘文堂書房、一九二〇年(初版一九一八年)。
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2019年5月14日(火)例会予報

論題:江戸の腑分け―山脇東洋『蔵志』とその波紋―

報告者:向静静(コウ セイセイ)

要旨
 杉田玄白『解体新書』は、日本における近代医学の出発点として高く評価されている。そのため従来、『解体新書』の画期性は、多くの研究によって論じられてきた。しかしながら、ここで見逃されているのは、腑分けに携わった玄白以外の人々―腑分けを実現させた医家の苦心、その所見を記録し刊行した医家らの実行力であろう。報告者は、その医家の一人である山脇東洋に注目したい。
 山脇東洋(1705~1762)は、玄白の小塚原における解剖に先立つこと17年、1754年閏2月7日、官許を得て、京都六角獄舎において日本で初めて公に刑屍体の腑分けに立ち合い、実見した記録を『蔵志』としてまとめ、5年後の1759年には刊行していた。従来の研究は、東洋の「観臓1」に対し「解剖観察へと発展して西洋の科学精神と結びつくに至った」「中国医学に記された経絡臓腑説と蘭方医学の解剖器官とを弁別するために行ったものであり、これは西洋医学が日本で発展する契機になった」というように、『蔵志』とオランダ医学との関連に注目してきた。これに対し、報告者は、東洋が行った腑分けの実態を解明したいと考え、昨年12月の報告では、東洋の「復古」医学の「三綱」である「周之職」「漢之術」「晉唐之方」をめぐって、報告を行った。そこでは「日本最初の科学的な人体解剖」と称される東洋の「観臓」を「復古」主義という観点から分析し、たしかに東洋は「観臓」の頃すでにVeslingusの解剖書Syntagma Anatomicumを所蔵していたものの、それは決して「観臓」の決定的な要素ではなかったことを明らかにした。すなわち、東洋は荻生徂徠の古文辞学に遭遇し、その思想に導かれ、古代へと遡っていき、たどり着いたのが、『周礼』の「參之以九藏之動」という記述だった。彼は、当時後世派医家らが尊崇していた『黄帝内経』『難経』などの中国の古典医書が説く「五臓六腑」説を否定し、『周礼』の権威を実証すべく、「観臓」を行ったのである。
 そこで、今報告では、今学期の日本思想史研究会のテーマである「西洋という他者」に合わせて、江戸時代の腑分けを系統的に考察する。具体的には、東洋『蔵志』の刊行が投じた波紋、当時における賛否両論の声を整理し、あわせて『蔵志』の影響を受けて行われた一連の腑分けを検討したい。あらかじめいえば、東洋を嚆矢とする腑分けが全国にわたって行われるようになったことにより、残された所見記録を確認すると、江戸中後期の腑分けには、オランダ解剖書からの影響もあったが、中国医学の影響は依然として強かったといえるのである。


主要史料

山脇東洋『蔵志』(1759年)大塚敬節・矢数道明編『近世漢方医学書集成13、後藤艮山・山脇東洋』名著出版、1979年
官於獄中解之、使余就觀焉、置屍廳前藁席上、令屠者解之、始剝胸、有一條直骨如笏者、自天突、至隔膜上、左右肋骨各九枚、猶椽湊梁也、乃奏刀、橫決肋間白膜、豎截肋之湊骨者、其導欲窽、猶切泥也、左右拆開、遂截去直骨、而隔膜以上、豁然可賭、氣道在于前、食道隱于後、肺者、上連氣道、下及隔膜、兩肺挾心、猶懸紫錦囊、右肺襞二、左肺襞一、以管吹氣道、則兩肺皆怒張、鮮澤似蟬翼、心者、懸肺之中間、如未開紅蓮、上系氣道、下向隔膜、左右兩管屬兩肺、一管別貫隔膜、通氣於肝、大膜在心下、限隔上下、肝者、位于右、濃紫色、襞一膽者、附肝背、青白色、橢而如卵、胃者、橫膜下、上承食道、下踞于腸、脾者、屬胃之左背、狀如馬蹄、有縐紋、①腸者、上戴者、下走肛門、白色帶淡紅、屈盤纏繞其長四丈許、腎者、在胃下腸背、橢而淺紫色、兩腎各有絡、而下通精道兩穴、白脂包之、剔除乃見其狀、膀胱者、上連于腸、下隱于橫骨、壓之尿迸出、心肺肝脾腎者、肉塊也、胃膽膀胱腸者、膜也、九臧所連、皆有白脂黃膩、而縈紆粘著、猶雲霞薄籠林壑也、脊骨者、背面有鰭如魚、其節十有七、上細下巨、如箏之狀、出臧而後、從內視之、其節歷々乎可數矣、手者、白筋無數、直湊于腕、而背面有通于五指者、至于肘前、皆為肉、維肘者皮耳、無復一條筋絡、通於肩背者、膝脛亦然、素難所謂、骨度短長、總三七節、暨手足經絡之説、其妄可知矣、如謂三部候六臧、則亦益甚焉、且肺六葉兩耳、心有胞絡、肝有四葉、左三葉、腸疊積十六曲之額、亦何肖獺之臧乎、抑以獸之臧、類推與、將不知妄作與、是可異也、嚮者獲蠻人所作、骨節剮剝之書、當時憤憤不辨、今視之、胸脊諸臧、皆如其所圖、履實者、萬里同符、敢不嘆服。(中略)尚德幸遭遇文明之運、稽焉以復古之學、徴焉以經驗之實、是何幸也、於是記所親見、併述所懷云爾 。

佐野安貞 『非藏志』1760年、京都大学付属図書館蔵
京師山脇道作者、解刑人死殼、親探府藏、寫其所見、著藏志一篇(中略)慢引尚書周禮、暨御冠韋昭等語、以證之、尚書周禮何書、御冠韋昭何人、以此求之、猶緣木求魚、是有哉、取其考據也、九藏之稱、其原出于内經、而有神藏形藏之分、蓋外史所掌、周禮有其稱爾、嗚呼内經、與其視藏異者(中略)且夫藏之為藏、非形象之謂、以藏神氣也、神去氣散、藏只虛器、何以知視聽言動隨其所、又何以見榮衛三焦之統紀是故、昭昭之視、不若冥々之察、赫々之功、成於惛々之辨、視之無理求焉、則使童子視何異。


伊良子光顕『外科訓蒙図彙』1767年、京都大学付属図書館蔵
按ルニ嚮ニ平安ノ山脇尚德子所著ノ臟志中ニ腸ニ大小ノ別ナキノ説ヲ舉ク、觀臟ノ疏ナル推テ可知、吾輩先生ニ從テ、屢バ金瘡出腸尿小腸ヨリ泌ル者ヲ觀ル、後實暦戊庚ノ年、先生門人ノタメニ屍ヲ官ニ請テ伏水ノ平戶島ニ於テ解之、始テ腸ニ大小ノ別アルヲ觀、又古書ノ不妄作ヲ識ル故ニ、先生別ニ浣腹論一編並ニ觀臟骨節ノ圖繪ヲ著述シ、山脇佐野二氏ノ正誤、後學ノ惑ヲ解クノミ刻近ニ成ル可購。


北山彰『雞壇嚶鳴』北山橘庵編『雞壇嚶鳴』1764年、中之島図書館蔵
北山橘庵:吾邦有好事之醫、屠割官刑之死腸、審視其藏府布置名數色澤、著藏志論一篇、云内經言府蔵為十二焉、今已撿之、知有九枚之蔵、大腸獨在不見小腸、慢引尚書周礼雜家之書以證之、如素問所謂蔵府布置五行配當之説者黜之、謂亡一當吾業者貴邦亦有此説耶、足下所見如何。
北山彰:貴邦學者好吐奇論、未知其俗別有奇腸乎、吾邦一準由軒岐舊則不復求新説、割而知之者愚者為也、不割識之者聖者之能也君勿惑。

鶴冲元逸・吉益東洞『毉断・臓腑』『近世漢方医学書集成12吉益東洞』名著出版、1980年
周禮曰參之以九蔵之動、而不分腑也。仲景未嘗論、亦無益於治病也、傷寒論中適有之、然非仲景之口氣、疑後世攙入也、夫漢以降、以五行配之、以相克推病、且曰、腎有二、曰臟五而腑六、曰臟六而腑五、曰有命門、有心包、有三焦、其説弗啻堅白、要皆治疾之用亦。

主要な参考文献
伊良子光顕『外科訓蒙図彙』巻之下「腹腋之部」1767年、国文学研究資料館所蔵
滝弥八著・若太中校『鶴臺先生遺稿』1778年、早稲田大学図書館所蔵
杉田玄白著・緒方富雄校註『蘭学事始』岩波書店、2007年
呉秀三「滝鶴臺とその醫業」『中外医事新報』(1157)日本医史学会、1930年
杉本つとむ『江戸時代の阿蘭陀流医師』「まえがき」早稲田大学出版部、2005年
タイモン・スクリーチ著・高山宏訳『江戸の身体を開く』作品社、1997年
日本学士院編『明治前日本医学史』第一巻(増訂復刻版)、井上書店、1978年
MACE美枝子 「山脇東門及び萩野元凯とオランダ医学」『日本医学史雑誌』第40巻第2号1994年
日本学士院編『明治前日本医学史』第一巻(増訂復刻版)、井上書店、1978年
佐藤中陵『中陵漫録』『日本随筆大成』第三期第3巻
富士川游『日本医学史』日新書院、1941年
山田慶児『歴史の中の病と医学』思文閣出版、1997年
中山茂『近世日本の科学思想』講談社学術文庫、1993年
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2019年1月8日(火)例会予告

論題:安丸良夫の思想形成と安丸史学の方法

報告者:渡邉啓太

要旨:
 本報告は、日本思想史研究者安丸良夫の思想形成過程をマルクス主義や丸山眞男などの同時代の思想とのかかわりから分析することで、他の民衆思想家とは区別される安丸良夫独自の思想と歴史学の方法論を探るものである。
 安丸の民衆史研究は、E.P.トムスンやE.ホブズボームのようなイギリスの民衆史家の仕事やインドの歴史家集団サバルタン・スタディーズの仕事と比較され、それらと似通ったもの、あるいはその論点を先取りしていたものとしてしばしば語られる。例えば長谷川貴彦は、トムソンらイギリスのマルクス主義民衆史家の研究と安丸の研究を比較してそこに同型の問題意識と論理構成を見出し、彼らが同時並行して民衆史を開拓してきたと述べている(長谷川貴彦「安丸民衆史の射程――ヨーロッパ史の視点から」『現代思想』44巻16号、青土社(2016)、pp208-219)。また、磯前順一はサバルタン・スタディーズ、とりわけ同グループに「転回」をもたらしたとされるG.C.スピヴァクと安丸を比較し、安丸の研究を「すでに一九六〇年代の段階から、スピヴァクがサバルタン性と呼んだような民衆の表象不能性をふまえた研究」だとし、また「スピヴァクの問題意識を先取りしたかたちで、歴史叙述の実践的現場からいちはやく問題提起した」歴史家として安丸をとらえている(磯前順一「思想を紡ぎ出す声――はざまに立つ歴史家 安丸良夫」安丸良夫・磯前順一編『安丸思想史への対論――文明化・民衆・両義性』ぺりかん社(2010)、p299)。
 しかし、安丸の問題関心や思想はもともと「人はなんのために生きるのか」といった「人生論風の哲学」から出発して、丸山眞男やマルクス主義、それら諸思想を打倒せんとして登場してきた「近代化論」などさまざまな同時代の諸思想から強い影響のもと形成されてきたものであり、最初から「民衆」にかかわるものであったわけではない。もっといえば、トムスンやスピヴァクといった思想家が「民衆の歴史」を描こうとしたのに対し、安丸は「歴史のなかの民衆」を描くことにこだわりつづけた。安丸はあくまで「近代」のような「全体性」を把握しようとしつづけたのであり、そこに彼の思想の独自性が見られるように思われる。
 本稿では、学部生時代から彼の歴史学の手法が確立されたと思われる1970年代までの安丸の思想の変遷を追い、ついで安丸の思想を考えるうえでキーとなるであろう「全体性」概念を軸に安丸史学の方法がどのようなものであったかを分析する。

参考文献:
・R.グハ/G.パーンデー/P.チャタジー/G.スピヴァック(竹中千春訳)『サバルタンの歴史――インド史の脱構築』岩波書店(1998)
・P.チャタージー(粟屋利江・植松歩美訳)「『サバルタン・スタディーズ』略史」『みすず』571号、みすず書房(2009)
・磯前順一「思想を紡ぎ出す声――はざまに立つ歴史家 安丸良夫」安丸良夫・磯前順一編『安丸思想史への対論――文明化・民衆・両義性』ぺりかん社(2010)
・鹿野政直「民衆思想史の誕生――道標としての安丸良夫」『現代思想』44巻16号、青土社(2016)
・崎山政毅『サバルタンと歴史』青土社(2001)
・戸邊秀明「戦後史学史のなかの安丸民衆史――ある全体性のゆくえ」安丸良夫・磯前順一編『安丸思想史への対論――文明化・民衆・両義性』ぺりかん社(2010)
・友常勉「「経験的なるもの」の歴史記述――断章、スピヴァク」『現代思想』27巻8号、青土社(1999)
・永原慶二『20世紀日本の歴史学』吉川弘文館(2003)
・成田龍一『歴史学のナラティヴ――民衆史研究とその周辺』校倉書房(2012)
・成田龍一「解説 歴史学の<方法>と「戦後知」としての歴史学」島薗進・成田龍一・岩崎稔・若尾政希編『安丸良夫集5 戦後知と歴史学』岩波書店(2013)
・西川祐子「安丸良夫『出口なお』の再読」『現代思想』44巻16号、青土社(2016)
・長谷川貴彦「安丸民衆史の射程――ヨーロッパ史の視点から」『現代思想』44巻16号、青土社(2016)
・東島誠「安丸良夫の「近代」と歴史の追創造」『現代思想』44巻16号、青土社(2016)
・平野克弥「ヘーゲルの亡霊と民衆史のアポリア――安丸歴史学の認識論的前提の問題をめぐって」『現代思想』44巻16号、青土社(2016)
・安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』平凡社(1999)
・安丸良夫『現代日本思想論』岩波書店(2004)
・安丸良夫『出口なお――女性教祖と救済思想』岩波書店(2013)
・安丸良夫「色川大吉と戦後歴史学――「民衆史」の構想力」島薗進・成田龍一・岩崎稔・若尾政希編『安丸良夫集5 戦後知と歴史学』岩波書店(2013)
・安丸良夫「回顧と自問」島薗進・成田龍一・岩崎稔・若尾政希編『安丸良夫集5 戦後知と歴史学』岩波書店(2013)
・安丸良夫「黒田俊雄の中世宗教史研究――顕密体制論と親鸞」島薗進・成田龍一・岩崎稔・若尾政希編『安丸良夫集5 戦後知と歴史学』岩波書店(2013)
・安丸良夫「戦後知の変貌」島薗進・成田龍一・岩崎稔・若尾政希編『安丸良夫集5 戦後知と歴史学』岩波書店(2013)
・安丸良夫「前近代の民衆像」島薗進・成田龍一・岩崎稔・若尾政希編『安丸良夫集5 戦後知と歴史学』岩波書店(2013)
・安丸良夫「日本の近代化についての帝国主義的歴史観」島薗進・成田龍一・岩崎稔・若尾政希編『安丸良夫集5 戦後知と歴史学』岩波書店(2013)
・安丸良夫「方法規定としての思想史」島薗進・成田龍一・岩崎稔・若尾政希編『安丸良夫集5 戦後知と歴史学』岩波書店(2013)
・安丸良夫「丸山思想史学、遠望する灯火」島薗進・成田龍一・岩崎稔・若尾政希編『安丸良夫集5 戦後知と歴史学』岩波書店(2013)
・安丸良夫「思想史研究の立場――方法的検討をかねて」島薗進・成田龍一・岩崎稔・若尾政希編『安丸良夫集6 方法としての思想史』岩波書店(2013)
・安丸良夫「『文明化の経験』序論 課題と方法」島薗進・成田龍一・岩崎稔・若尾政希編『安丸良夫集6 方法としての思想史』岩波書店(2013)
・安丸良夫「『<方法>としての思想史』 はしがき」島薗進・成田龍一・岩崎稔・若尾政希編『安丸良夫集6 方法としての思想史』岩波書店(2013)
・安丸良夫/タカシ・フジタニ「対談 いま、民衆を語る視点とは?――民衆史とサバルタン研究をつなぐもの」『世界』663号、岩波書店(1999)
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