日本思想史研究会(京都)のブログ

本研究会は立命館大学を拠点に、歴史学・思想史の問題について時代・地域に捉われることなく、深く考えていく場として設立されました。2014年度後期例会は、個人研究テーマ報告です。

11月3日 例会予告

論題
博論構想:近世日本の儒教と儀礼―闇斎学派の朱熹『家礼』受容と儒礼実践に関する思想史研究―
報告者 松川雅信

 まだ見通し的なものに過ぎないのですが、博論全体の構想・概要について報告させていただきたいと思います。それでは、何卒よろしくお願い申し上げます。

松川雅信
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2015年5月21日 例会予告

  ホブズボーム『市民革命と産業革命』8~10章


 明日の報告では直接扱いませんが、先週までの範囲でも、西洋史の知識の乏しい私は、
ホブズボームのヨーロッパ的視野からの研究に四苦八苦しております。
そこで、ごく簡単にではありますが、1789年~1848年までを含むのヨーロッパの動きが
可視的に追える動画を見つけましたので、共有しておきます。興味のある方は、ご利用ください。
https://www.youtube.com/watch?v=OIS2YExS4Ms

 石原和

 
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2014年6月12日例会予告

次回の報告は、下記の通りです。

論題:村上重良と「国家神道」・「民衆宗教」―「国家神道と民衆宗教―村上重良論序説―」を中心に―
報告者:横山


<参考文献>

林淳「国家神道と民衆宗教―村上重良論序説―」愛知学院大学『人間文化 第25号』2011年
村上重良『国家神道』(岩波書店、1970年)
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2014年6月5日例会報告題名

明日の例会につきまして、お知らせします。

報告題名: ポスト「丸山真男と儒学」―「一国思想史」批判と「近世帝国」論をめぐって―

報告者:田中


〈参考文献〉
・丸山真男『日本政治思想史研究』(東京大学出版会、1952年)
・酒井直樹『過去の声』(酒井直樹監訳、川田潤・斎藤一・末廣幹・野口良平・浜邦彦訳、以文社、2002年)
・山下範久『世界システム論で読む日本』(講談社、2003年)
・桂島宣弘「「近世帝国」の解体と十九世紀前半の思想動向」(苅部直ら編『日本思想史講座3-近世』ぺりかん社、2012年)
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【巻頭言】 辻本雅史「学問観をめぐる羅山と藤樹」

寛永六年、林羅山は、僧の極位たる法印に叙せられた。その直後、彼は、儒者でありながら僧形・僧位にあることを自ら弁解する一文を草した(『羅山先生詩集』巻三十八)。これに対して二十四歳の青年中江藤樹は、「林氏剃髪受位弁」を著わして、羅山の欺瞞性を激しく糾弾した。非儒学的世界に身を置き、常に妥協を強いられた羅山の苦しい自己弁護に比し、儒学の理念に立脚した藤樹の筆鋒は鋭く、かつ明快であった。文章自体の説得力と後世の評価は、“御用学者”羅山よりも、藤樹の方に断然分がある。

「倭国にて儒者と称する者は、徒だ聖人の書を読むを知るのみ」(「安昌弑玄同論」)とみていた藤樹にとって、「記性頴敏、博物洽聞」の羅山はまさにその権化に違いなかった。後に藤樹は、その著『翁問答』において、儒者論を論じた。それによれば、四書五経、諸子百家の書をそらんじて「口耳をかざり利禄のもとめとのみ」する儒者は、「俗儒」であり、その学は「にせの学問」であるという。これに対して、「儒道をおこなふ人は、天子・諸侯・卿大夫・士・庶人なり。此五等の人のよく至徳要道を保合するを真儒と云なり。しかるゆへに、天子・諸侯・卿大夫・士・庶任のしょさ(所作)が、すなわち真儒のすぎわひにて候。五等の所作のほかのすぎわひは、天命本然の生理にあらず」というのが、藤樹の結論である。「がくもんは人間第一の急務にして、なさではかなはぬこと」ともいうように、儒学は、人たるもの天子以下庶民まですべてがひとしく学ぶべきもので、それは人として生きる根拠となるべき規範である。逆にいえば、「身のすぎわひ」のために学問するいわば職業儒者や専門学者の存在の正当性は認めていないわけである。

かく、自己の生き方の原理として儒学を主体的にえらびとるというのが、藤樹の学問に対する姿勢であった。熊沢蕃山の姿勢も、師藤樹とほぼ同じい。この意味では、山崎闇斎や山鹿素行さらには石田梅岩など、学派の違いをこえて、これと共通の学問観を指摘できる思想家は、必ずしも少なくはない。

これに対して、羅山は、まぎれもなく学によって「利禄をえた」専門学者であった。むしろ当時の儒者の多くがそうであった。蕃山は、「学問を教えて産業とする」彼らを、「道者」と明確に区別して「史儒」といい、さらには「役者」「芸者」と称した(『集義和書』)。ネガティブなひびきをもつこれらの言葉が示すように、近世前期において、知識の専門家という意味での学者は、それ自体必ずしも市民権をえていたとはいえないようである。

ところが、享保期、荻生徂徠は、『学則』末尾において、「学んで寧ろ諸子百家曲芸の士と為るも、道学先生と為ることを願はず」と言いきった。あまりに有名なこの言葉は、朱子学的リゴリズムへの訣別宣言として、当時の学者たちに強烈なインパクトを与えた。徂徠は、道の認識者と道の実践者を分離し、儒者(学者)の役割を明確に前者に限定した。しかも学問を、実践(「治国安民」)のための「述」(技術・方法)であるとし、学問には、実践的現実からの一定の自立性を高い専門性とが必要であると論じた。この学問観が近代的であるか否かは、ここでは論じない。しかし徂徠のこの学問観が、以後儒学の枠をつきやぶって多彩かつ豊かに展開してゆく諸学問(経世学・医学・蘭学・本草学等々)が成立する前提をなしたことは、疑いない。

けだし徂徠の学問観は、羅山が若干の後めたさを余儀なくされつつも依って立っていたその職業的儒者の立場を、積極的かつ学問的に正当化したものではなかったか。ちなみに、徂徠自身も、闇斎学派の対極としての羅山の学風や学制に大いに好意的であった(『学寮了簡書』)。実際の歴史では、以後、これに対する朱子学の側からの反撃も強く、寛政異学の禁も、その延長線上に準備されてゆき、やがて両者が重層的に共存しながらも近代につながっていったとみられる。

右の二つの学問観は、結局のところ、客観的真理を追求する意味において、実践的現実に対する学問の相対的自立性(学問的世界における一定の自己完結性、通常それは高度の専門性を随伴する)と、学問的主体の生き方との関わりという問題を内包しているやに思われる。

今や、学問は、高度に専門分化し、必然的に職業化という形をとらざるをえない。それは、学問の発達の所産に違いあるまい。その結果、今日学問に関わる我々は、好むと好まざるとにかかわらず、徂徠流の学問観の世界に身をおいている。しかし思うに、かかる時代であればこそ、かえって藤樹流の問題提起を学問の原点として新鮮さをもって、一人一人が思いをいたすことが必要ではあるまいか。藤樹はいう、「口耳をかざり利禄のもとめとのみ」する学問は、「にせ」であり、「正真のがくもん」とは、人としての生き方の根拠となるものである、と。(光華女子大学講師)

(『日本思想史研究会会報』第3号掲載)
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