日本思想史研究会(京都)のブログ

本研究会は立命館大学を拠点に、歴史学・思想史の問題について時代・地域に捉われることなく、深く考えていく場として設立されました。2014年度後期例会は、個人研究テーマ報告です。

2017年1月12日例会予告

木曜(1月12日)の例会につき、岡山大学からお越しいただく後藤智絵さんがご報告します。
つきましては報告テーマと参考文献についてご連絡します。以下の通りです。

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報告者
岡山大学後藤智絵さん

報告タイトル
「柳宗悦とシャルロット・ペリアンの共鳴について―1941年に開催されたペリアンによる展覧会を中心に―」

参考文献

・柳宗悦「日本民芸協会の提案」復刻版『月刊民藝・民藝』第4巻、不二出版、2008年
 初出:『月刊民藝』第2巻第10号、1940年10月

・柳宗悦・濱田庄司「ペリアンの展覧会をみて」復刻版『月刊民藝・民藝』第5巻、2008年
 初出:『月刊民藝』第3巻第3号、1941年4月
・「工芸座談会ペリアン女史創作品展について聴く」森仁史・梅宮弘光編、叢書・近代日本のデ ザイン68『論文選 昭和篇』ゆまに書房、2015年、292〜309頁
 初出:『工芸ニュース』第10巻第5号・第6号、1941年

・「第二回貿易局輸出工藝図案展覧会講評」森仁史・梅宮弘光編、叢書・近代日本のデザイン68『論文選 昭和篇』ゆまに書房、2015年、248〜266頁
 初出:柳宗理監修『輸出工芸』第6号、1941年

・シャルロット・ペリアンと日本研究会編『シャルロット・ペリアンと日本』鹿島出版会、2011年
以下省略

*例会終了後、懇親会を催す予定です。多くのご参加お願い申し上げます。
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12月22日 例会報告予告

論題: 「植民地朝鮮における近代百貨店の社会的位相(仮)
報告者:崔理愛

参考文献 

・末田智樹『社史で見る日本経済史第54巻 三越』ゆまに書房、2011年

・林廣茂『三中井百貨店』ノンヒョン、2007年

・森山茂徳「植民地統治と朝鮮人の対応」韓日歴史合同研究報告書5、2005年

・キム・ベクヨン「帝国のスペクタクル効果と植民地大衆の都市経験‐1930年代ソウルの百貨店と消費文化」『社会と歴史』第75、2007年

・キム・ソヨン「1930年代雑誌に現れた近代百貨店の社会的意味」『大韓建築学会』 第25巻、2009年

・ヨム・ボクギュ「民族と欲望のランドマーク-朴興植と和信百貨店-」『都市研究』第6号、2011年

・オ・ジンソク「日帝下パク・フンシクの企業家活動と経営理念」『東方学誌』第118号、2002年

などです。



それでは、よろしくお願いいたします。
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12月15日例会報告要旨

論題:「「東アジアの覚醒」と「大正デモクラシー」の相克と相乗
    ―大正期における三一・五四運動へのメディアと知識人の認識を手がかりに―」
報告者 張琳

 1919年で勃発した植民地朝鮮の「三・一運動」及び中華民国の「五・四運動」に関しての先行研究の蓄積は厚い。しかし近年歴史学研究における認識論的・情動論的転回によるメディア史研究の進展に伴い、運動の実態とともに、同時代のメディアのなかで表象された運動像、メディア側での報道手法、メディア権力批判、あるいは人々の認識、感情、反応、行動については研究されるようになりつつある。ただ常に看過されているのは、この特殊な時期の国際的・外部的動向である。とりわけ「パクス・ブリタニカ」の崩壊を象徴する第一次世界大戦におけるアメリカの台頭は、この時期の後進帝国日本にとって、意味の深いものであった。戦後、さらにアジアでの勢力拡大を求める日本は、必然的に新しいヘゲモニー国家アメリカと遭遇する。加えて19世紀末から海洋覇権を「発見」し、第一次世界大戦後積極的に海洋国家を目指すアメリカは、19世紀末から唱えられ始めた「黄禍論」 の影のもとで、日露戦争以降アメリカによる日系移民制限など人種的差別政策は戦後一層熾烈に展開されるなか、帝国日本と(半)植民地の関係は、常にこのスーパーパワー源との緊張関係の規定の中で展開されている。さらに1918年夏のシベリア出兵に対するロシア側および朝鮮義兵の挟撃も、1919年から1920年にかけて帝国日本のジャーナリズム界にとっては「排日」に違いないと認識されていた。大戦後、勢力拡大の動きにおける一連の挫折によって、一時期日本は「四面楚歌」の境地に陥るなか、メディアナショナリズムの高まりないし大衆・知識人のナショナリズムの高揚は不可避のものとなっていく。危機感に駆り立てられた知識人は「帝国改造」を高唱しつつ行動し始め、「大正デモクラシー」と護憲運動の風潮、コスモポリタニズムや社会主義に基づくインタナショナルな連帯の試み、アジア主義の国内への旋回はこの時期の思想界の主旋律となる。当該期このようなメディアと知識人両方の動向は極めて顕著な形で現れてきたのにも関わらず、先行研究では具体的、あるいは両者を関係付けて取り上げられたことは殆どない。本論文では「三・一運動」「五・四運動」という植民地・半植民地のナショナリズム運動に対し、「白虹事件」後、中立・慎重路線に傾けた『朝日新聞』の論調変化及び両運動を真正面から受け止め、「帝国改造」を唱えて積極的な行動をも見せる二人の知識人――北一輝と吉野作造を取り上げることによって、「後進帝国」と「植民地」間のナショナリズムの衝突と葛藤を明らかにし、「後進帝国」ナショナリズムに表象された、列強の人種主義的論理を内面化して転嫁する「植民地」に対した人種的蔑視、憎悪、鎮圧、弱者への同情、反抗者への懐柔、そして「先進帝国」へ強者入りの渇望、アジアを引導する自負、また列強の翻弄に由来した反発といった複雑な時代状況下に生まれたアンビバレンスな感情と思潮を一部再考した。
 
文責 張琳
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11月3日 例会報告要旨

〈報告要旨〉
博論構想:近世日本の儒教と儀礼
―闇斎学派の朱熹『家礼』受容と儒礼実践に関する思想史研究―

松川雅信

 本報告では、現在執筆途中の博士論文の概要に関する経過報告を行った。
 現在構想中の博士論文では、朱熹『家礼』を中心とした儒礼をめぐる近世日本儒者の言説、ならびにかかる諸実践という問題を、闇斎学派に即しながら論じていくことを課題に据えている。こうした課題設定を行う所以は、既存の近世日本儒教研究の成果を振り返ってみた際に、そこでの問題の所在が概ね以下の二点に存していると考えるからである。
 儒教が近世日本において「体制教学」たり得ず、社会的にはむしろ非特権的位置にあったということは、斯界ではもはや贅言を要さない大前提であろう。こうした大前提に基づき従来の研究は、近世日本において儒教が「学問」としての、いわば「儒学」としてだけ限定的に展開し得たという点を強調してきた。だが近世日本の儒教を、「儒学」としてのみ捉えることで零れ落ちてしまうのは、近世日本儒者の『家礼』をはじめとした儒礼への旺盛な関心という事実であろう。近世日本儒者による儒礼へのとり組みという事実が看過されてきたということ、これが既存の研究に孕まれた一点目の問題点である。近世日本にあって儒教が非特権的であったという大前提それ自体は疑う余地がないものの、そのことは必ずしも儒教が「儒学」としてだけ展開し得たということを意味しない。むしろ、近世日本儒者が儒礼の問題にとり組んでいたという事実を、かくなる大前提を共有しながら思想史的に意味づけていく作業が必要なのである。
 近世日本儒教の展開を各儒者や学派に即して論じるに際し、戦後飛躍的に研究が進展した対象は、何といっても「徂徠以後」の儒者・学派に関するそれだろう。「徂徠以後」という主題は、徂徠学に近世日本儒教の到達点を見出した丸山眞男『日本政治思想史研究』に対するアンチテーゼとして研究史上に大きな意義を有し、例えば近世後期の寛政朱子派等については、現在進行形でなお様々に研究が蓄積されつつあるといっても過言ではあるまい。しかしながら「徂徠以後」の主題化は、徂徠学を分水嶺として近世日本儒教を捉えるという点では実のところ、丸山が示したシェーマを継承している。そして、かく徂徠学に画期が見出されることで、未だ死角としてとり残されてしまっているのは、徂徠学登場以前から近世後期に至るまで、一定の影響力を有しながら存続していた学派をどう位置づけるかという問題ではないだろうか。これが二点目の問題点であり、また本研究が闇斎学派を主たる対象に据える所以である。
 博士論文では、以上の研究史上の問題点を克服するためにも、闇斎学派に即して近世日本における儒礼をめぐる問題について考察することとし、もって新たな近世日本儒教像の提示を目指したい。
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10月20日 例会報告要旨

論題 「荻生徂徠と明代「擬古派」」
報告者:石運
要旨
荻生徂徠の学問は後人によって「古文辞学」と呼ばれているようになったのだが、これは江戸時代の記録からすでに見られる。徂徠が自身の学問を「古文辞学」と称した記録について、現在確認した範囲では、『譯文荃蹄初編』の序文にある一回のみである。他の場合、彼は「古文辞」という言葉を愛用したにもかかわらず、自分の学問を二度と「古文辞学」として概括しなかった。そこには、彼の「古文辞学」という表現に対する複雑な思いが隠されているのであろう。従来の徂徠学研究において、徂徠と李・王 との関係(徂徠と明代古文辞学との関係として表現する場合が多見である)が一つの重要な課題として多く検討されてきた。吉川幸次郎氏や片岡龍氏、また藍弘 岳氏の研究によって、両者における緊密な関係が十分に明らかにされた。先学の指摘によれば、それは「中国明代の古文辞学派からの強い示唆のもとに」、「四 十歳頃における古文辞学との出会いから五十歳過ぎにおける思想的飛躍(徂徠学の成立)へと至る知的過程」として、李・王が徂徠の学問形成にもたらした影響をこのように捉えている。しかし、以上の研究は観察の視角が異なるにもかかわらず、結局は徂徠が李・王の学を受容して、自らの学説を立ち上げたというように簡単に収拾してしまった。これでは徂徠は李・王 の学問に対する態度の変化について十分に捉えなかったことになる。言い換えれば、先行研究における「文学者」としての徂徠には、如何に「政治家」、「思想 家」への変身を遂げたかについて、詳細な論述がないため、少し唐突な印象を与える。宇野田氏の研究はこの面に若干触れている。氏は徂徠学における方法論的 な変換に注目した。李・王 から摂取した「擬古主義」という方法論により、徂徠の学問に一つの飛躍があったとする。しかし、氏の問題関心は江戸の儒学社会における徂徠学の展開という 所である故、上述の問題を更に展開して議論を行わなかった。宇野田氏と同じくこの問題を意識した高山大毅氏は、「修辞」と「礼楽」を二つのキーワードとして挙げて、両者の関係を解明しようとした。 氏は宇野田氏の研究よりさらなる一歩を踏み出し、徂徠の「擬古」という方法論が如何に「礼楽制度」の構成に使われたかを論じた。そのほかに、氏は江戸の社 会背景からその源泉を求め、徂徠がもっていた「制度」の構成に対する強いこだわりの理由等の問題を提起し、徂徠の政治論に関して有意義な検討を行った。しかし、高山氏の議論は基本的に徂徠を徳川日本という社会に限定し、その思想の形成経緯を検討するものである。徂徠思想の「日本性」を描こうとする本意がないとはいえども、結局そのようなイメージが残されてしまう。 では、徂徠はどのように明代擬古派たちの「古文辞」を理解しているか、またそこからどのように自分の学説を構築したか等々の課題が、現段階ではなお十分に解明されていなかった。以上の問題意識を抱えながら、徂徠の著作から彼自身における明代擬古派に対する認識、またそれを土台とする自身の学説をめぐる陳述を整理してみよう。

文責:石運
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