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日本思想史研究会(京都)のブログ

本研究会は立命館大学を拠点に、歴史学・思想史の問題について時代・地域に捉われることなく、深く考えていく場として設立されました。

『日本思想史研究会会報』第39号

『日本思想史研究会会報』第39号が刊行されました。
御購入を希望される場合は、編集部まで御連絡下さい。
連絡先:shisoshiken@gmail.com

『日本思想史研究会会報』第39号(2023年3月)目次
【巻頭言】
長志珠絵:交差する植民地主義とジェンダー――歴史認識としての「空襲」

【論文】
西澤忠志:明治三〇年代の東京音楽学校における音楽観の変化
 ――渡辺龍聖の思想から
山口一樹:戦間期日本陸軍における「死生観」――皇道派将官・秦真次からの検討

【研究ノート】
半田侑子:加藤周一が語った日本――南京・広島・憲法九条

【書評】
朴海仙:佐々充昭著『朝鮮近代における大倧教の創設――檀君教の再興と羅喆の生涯』

【追悼】
桂島宣弘:田邊靖彦さんと今西一を偲んで

【彙報】

定価(税込):1500円
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2023年2月24日(金)の例会予告

題目:「女帝」の言説史―神功皇后論と継嗣令第一条の解釈を中心に―
発表者:斎藤公太(神戸大学大学院人文学研究科)
日時:2023年2月24日(金)18時~
場所:Zoomでオンライン開催
(会員以外の参加希望者はshisoshiken@gmail.comにご連絡ください。)

要旨:
 旧皇室典範第一条の制定によって女性・女系天皇の即位が否定され、いわゆる「男系男子主義」が成立するにあたって、横山由清や小中村清矩ら明治期の国学者の関与があったことはつとに指摘されてきた。しかし近世後期に生を受けたこれら国学者の女性・女系天皇に対する視点は、必ずしも旧皇室典範の規定に直結するわけではない複雑な内実も有していた。このような国学者たちの視点は、近世における議論の蓄積を背景にしていたと推測される。本発表はそのような問題意識から、「女帝」(女性天皇)の存在をめぐる近世の言説を取り上げ、考察を試みるものである。
 具体的には、神功皇后の正統性をめぐる前期水戸学の議論と、それに対して垂加神道の立場から反駁した遊佐木斎の主張を取り上げる。さらにその関連から、継嗣令皇兄弟皇子条に見られる「女帝子亦同」の文言をめぐる国学系統の議論を参照し、近世における「女帝」に関する言説の様相を浮かび上がらせたい。以上をふまえた上で、あらためて明治期における男系男子主義との関係についても考察を行う予定である。
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2023年1月27日(金)の例会予告

題目:戦前期に筧克彦はどのように読まれてきたのか
発表者:西田彰一(国際日本文化研究センタープロジェクト研究員)
日時:2023年1月27日(金)17時~ (普段より早い時間から行いますので、ご注意ください。)
場所:Zoomでオンライン開催
(会員以外の参加希望者はshisoshiken@gmail.comにご連絡ください。)

要旨:
 筧克彦(かけい かつひこ)(明治五年〔一八七二〕~昭和三六年〔一九六一〕)は東京帝國大學法學部教授で、国家学、憲法学、行政法学を専門とする学者でありながら、「古神道」「神ながらの道」という独自の思想を説き、記紀神話に表現された日本の精神及び生活の規範を、普遍的な実践規範として評価した人物である。
 従来筧克彦については、法学者でありながら、具体的な法解釈の議論をほとんどせずに、日本民族には、神話の時代から天皇と国民の君民一体を大事にする「古神道」「神ながらの道」と呼ばれる精神が息づいているので、それを「宗教としての神道」として、振興すべきであるという独自の思想を唱えたことから、風変りな人物として知られていた。また、この独自の思想の普及のために、講義中に柏手を打ったり、「日本体操」と呼ばれる体操を推進したするという奇矯な行動が目立たことから、「神がかり」的な人物として扱われてきた。
 こうした評価に対して報告者は異を唱え、そのような思想を鼓吹したのは、国体論に宗教を導入することで、明治期のように上から抑えつけるのではなく、大正期に生じてきた一般国民の政治参加の意欲を、国民が国を思う生命力・活力の内心からの発露として受け止め、従来の枠組みを超えた国民の政治参加や要望を認めつつ、宗教としての神道(古神道、神ながらの道)による内面の教化と実践の重視によって、国民の統合と国家への自発的参与を図った思想であったと位置付けた。
 この報告者自身の研究を踏まえて、次の段階として、こうした筧の思想が戦前においてどのように読まれてきたのかについて明らかにしていきたいと考えている。なぜならば、戦前においては筧は決して無視される存在ではなく、主に当時の国体論者たちにとっては、その議論を参照したうえで、批判すべき対象ともなっていたからである。そこで本報告では、上杉慎吉や里見岸雄をはじめとした当時の複数の知識人を取り上げ、彼らが筧のことをdのように評価してきたのかを検討することとする。それによって、戦前の国体論の思想状況に少しでも迫りたい。

参考文献
西田彰一『躍動する「国体」――筧克彦の思想と活動』(ミネルヴァ書房、2020年)。
竹田稔和『大正・昭和前期における神道思想―筧克彦の古神道を事例として―』岡山大学大学院文化科学研究科、2001年。
中道豪一「貞明皇后への御進講における筧克彦の神道論 ――「神ながらの道」の理解と先行研究における問題点の指摘」(『明治聖徳記念学会紀要』復刊50号、2013年)。
今野元『吉野作造と上杉愼吉――日独戦争から大正デモクラシーへ』(名古屋大学出版会、2018年)
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2023年1月20日(金)の例会予告

題目:明治三〇年代の東京音楽学校における音楽観の変化--渡辺龍聖の思想から
発表者:西澤忠志(立命館大学先端総合学術研究科表象領域)
日時:2023年1月20日(金)18時~
場所:Zoomでオンライン開催
(会員以外の参加希望者はshisoshiken@gmail.comにご連絡ください。)

要旨:
 明治時代は日本音楽史において、西洋音楽の受容をきっかけに音楽観への変化が起きた時期に当たる。特に西洋音楽受容の中心的役割を果たした東京音楽学校の場合、当初は和洋の音楽を合わせた「国楽」創成を通じたナショナリズムの涵養を目的に西洋音楽が受容され始めたが、明治30年代から「芸術」として見なされ始めた。先行研究では、授業科目などの制度と東京音楽学校出身の音楽家による評論を元に、その過程を明らかにした。しかし、東京音楽学校の方針の変化が、どのような思想的背景によって行われたのかについては触れていない。
 本報告は、この点を明らかにするために、明治30年代前半の東京音楽学校校長であり、倫理学者の渡辺龍聖による音楽に関する思想に注目する。本報告が取り上げる史料は、渡辺龍聖による東京音楽学校生徒への生活態度に関する講話、社会における「音楽」の位置付け、倫理学における「音楽」の位置付けに関する評論である。以上の史料の読解と、彼のアメリカ留学中の音楽体験との関連を通じ、どのような論理と経験から、渡辺のいうところの「音楽」と「芸術」との関係が構築されたのかを明らかにする。
 以上を通じて本報告は、東京音楽学校における「芸術音楽」の重視がどのような思想的背景に基づきつつ実施されたのかだけでなく、それがどのような日本音楽史における独自性を有するのかを、東京音楽学校の初代校長伊沢修二の音楽思想との比較を通じて提示する。

参考文献
奥中康人『国家と音楽――伊澤修二がめざした日本近代』(春秋社、二〇〇八年)
神林恒道『近代日本「美学」の誕生』(講談社、二〇〇六年)
東京芸術大学百年史編集委員会編『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇 第一巻』(音楽之友社、一九八七年)
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2023年1月13日(金)の例会予告

題目:地域史を作る…黒田俊雄から見る国民的歴史学運動の「後史」
発表者:鈴木健吾(東京大学総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程)
日時:2023年1月13日(金)18時~
場所:Zoomでオンライン開催
(会員以外の参加希望者はshisoshiken@gmail.comにご連絡ください。)

要旨:
 小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』の出版から20年が経ち、戦後直後の日本共産党の武装闘争路線と歩を合わせて展開された国民的歴史学運動の歴史化が急激に進んだ。殊に昨年高田雅士『戦後日本の文化運動と歴史叙述』が出版され、歴史教育系の同運動にメスが入るに及び、国民的歴史学運動はいよいよ運動当事者ではない「若手研究者」の研究ジャンルとして認知された感がある。一方、小熊が国民的歴史学運動の運動家として例示した日本中世史家・網野善彦(1928~2004)という例の妥当性という古くて新しい問題はなお問われていないように見える。江湖への圧倒的な影響力を持った網野だが、日本共産党との関係を早期に絶っている網野によって歴史家のサンプルとなるのは高度成長期以後の「戦後史学」が教科書訴訟や文化財保存運動などを中心に革新系の運動体としての組織を保ったことからも疑問があり、より革新系の運動と寄り添った歴史家の研究が必要であろう。
 選択肢は膨大にあろうが、報告者は網野と同世代の中世史家であり、国民的歴史学運動の運動家だった黒田俊雄(1926~93)を選択し、国民的歴史学歴史学運動の「挫折」(六全協/1955)後に黒田が取り組んだ運動・諸活動を分析することを試みた。具体的には①居住地の保存運動団体「乙訓の文化遺産を守る会」の発足への関与や難波宮保存運動訴訟への証人出廷などの文化財保存運動への参加②『伊丹市史』への参画(1965)以降の自治体史編纂への参加から分析していく。両方面の分析から国民的歴史学運動がその後の戦後史学の展開に持った課題と言える地域史の担い手の育成という観点を論じていく。その生涯を通じて共産党員として終始した大阪歴史科学協議会の発足(1964)を主導した黒田の像を分析することで「党員歴史家」の思惟様式を検討するのではなく、若年時に直接行動路線を含む運動に従事した世代が直面した高度成長以降の戦後日本の社会との格闘の様相を素描するkとを目指したい。

参考文献(略記/一部)
(拙稿)
「黒田俊雄の文化財観-国民的歴史学運動から文化財保存運動へ」『史鏡』創刊号2019年
「「運動としての地域史」再考へ向けてー黒田俊雄と乙文に寄せてー 」
『乙訓文化遺産』 26号 2022年
(研究書・論文)
小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』新曜社2002年(特に第8章「国民的歴史学運動」)
高田雅士『戦後日本の文化運動と歴史叙述―地域のなかの国民的歴史学運動』小さ子社
2022年
花森重行「国民的歴史学運動における政治の多様性」『新しい歴史学のために』第275号2009年
(黒田自身の著作)
黒田俊雄『黒田俊雄著作集 第八巻 歴史学の思想と方法』法蔵館1995年
同「『乙訓の文化遺産を守る会』の一〇年」『新しい歴史学のために』145号1976年
嶋田暁編集代表『難波宮跡の保存と裁判』第一法規1980年(主に黒田俊雄証言分)
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